2012年4月20日 (金)

「プロ野球を変えた男たち」3 若林忠志賞

    

今日は4月20日。再スタートから7日目。

   

前投稿のつづき。

プロ野球を変えた男たち」(鈴木明著/新潮文庫)に関連して。

   

昨年のニュースで若林忠志さんのことが出てました。

引用します。

     

「若林忠志賞」創設…社会貢献などで阪神選手を表彰

球団創設時からの主力投手、若林忠志氏(故人)の名を冠した

「若林忠志賞」創設を内定していた阪神が21日、正式発表した。

社会貢献やファンサービス活動に功績のあった所属選手を毎年1人選び、

球団納会などで表彰する。記念盾と表彰金100万円、活動支援金100万円を贈る。

甲子園歴史館に同賞のコーナーを設け、顕彰する。

甲子園の球団事務所で会見した選考委員長の沼沢正二専務・球団本部長は

「近年、選手の活動に意識の高まりを感じる。球団として、形として残したかった。

偉大なOBの功績と遺志を継承していきたい」と説明した。

桧山が03年から遺児施設を訪問、岩田が自身と同じ糖尿病患者の基金を設立するなど

「グラウンド外のMVP」候補は多い。

鳥谷選手会長は「社会貢献を考える良きタイミングとして多くの選手が関心を抱き、

社会の役に立てれば」と話した。

若林氏はファン開拓やプロ野球の地位向上に尽力。

「タイガース子供の会」を自費で立ち上げ孤児・遺児らの慰問などに努めた。

球団ではスポニチ本紙編集委員・内田雅也記者が今年1月に著した

「若林忠志が見た夢」(彩流社)が同賞創設の一つの契機となったとしている。

[ 2011年7月22日 06:00 スポニチ ]

   

第1回の表彰者は、桧山進次郎選手が選ばれました。  

すごいすごい。若林さん、喜ぶだろうなあ。

   

 

「プロ野球を変えた男たち」2 若林忠志とラッキー・ゾーン

   

今日は4月20日。再スタートから7日目。

  

前投稿からのつづき。

プロ野球を変えた男たち」(鈴木明著/新潮文庫)より。

   

昭和22年に、タイガースの監督を引き受けるにあたって、

若林忠志さんは3つの提案を、代表にしています。

1.若い新人をなるべくたくさん入れること。

2.新聞社・ラジオとタイアップして、野球の人気を盛り上げること。

そして3つ目。

引用します。

   

「第三に、ファンサービスです。グランドを小さくして、

ホームランを出やすくするようにしたらどうでしょうか?」

(代表)「小さくする?」

「そうです。外野に板で塀を作るのです。

今の日本選手の体力では、甲子園ではホームランは出ません。

しかし、ファンが求めているのはホームランです。

だから、日本式のホームランのために、グランドを縮めて、

その場所をラッキー・ゾーンと名前をつけたらどうでしょうか?」

(代表)「なるほどね・・・考えておこう」  (144p)

   

甲子園球場のラッキー・ゾーンは、この提案から生まれました。

Over04
http://hanshin-now.com/topics/100th/popup/o04.asp

    

応援歌といい、ラッキー・ゾーンといい、阪神にとって若林さんは大事な人だなあと思えてきました。

そしたら、昨年のニュースで、若林さんのことが出ているものを見つけました。

阪神が若林さんのことを大事にしていることがわかるニュースでした。

次の投稿で。

「プロ野球を変えた男たち」1 若林忠志と応援歌

   

今日は4月20日。再スタートから7日目。

 

また鈴木明さんの本を読みました。これで5冊目。

前回と同じくプロ野球の本です。

   

プロ野球を変えた男たち」(鈴木明著/新潮文庫)です。

鈴木明さんの、いかにもその場にいたような臨場感ある描写に、今回も引き込まれました。

   

プロ野球が、現在のように2リーグ制になったのは昭和25年でした。

その年の日本シリーズは、松竹ロビンス(セ・リーグ)と毎日オリオンズ(パ・リーグ)でした。

第1試合で先発・完投して勝利投手になったのが、毎日オリオンズの若林忠志さんでした。

この本は、第1試合の様子と、2リーグ制になっていく過程を織り交ぜて描かれたノンフィクションです。

いろいろな人が出てきますが、中心は若林さんでした。

若林さんは戦前から法政大学・日本コロンビアの野球チームで目立ったプレーヤーでした。

その後、タイガースに入団。戦後再びタイガースで選手として監督として長く活躍。

1953年に毎日オリオンズで選手を引退しました。

   

昭和21年、タイガースに復帰した若林さんは、22年は監督兼選手として契約をします。

     

若林は「太平洋水産」の経営を妻の房にまかせ、石巻をあとにした。

昭和22年1月の終わりだった。

キャンプは2月1日からやっと進駐軍に接収を解除してもらったばかりの甲子園で行われた。

2月はじめの甲子園は、手がちぢかむように寒い。

タイガースの応援歌は「六甲颪(おろし)に颯爽と、蒼天翔(か)ける日輪の・・・・」

という文句からはじまる。

これは若林がコロムビアにいた関係で、古関裕而(こせきゆうじ)が作曲したものであった。

「六甲颪は、トレーニングにはよくない」

と若林は苦笑した。それが、22年シーズンの始まりだった。  (142-143p)

   

あの有名な「六甲颪」と若林さんは関係していました。

若林さんがタイガースに入団した1936年(昭和11年)に作られた応援歌でした。

 

   

古関裕而さんは、NHKのスポーツ中継のオープニング曲で有名な

スポーツ・ショー行進曲を作曲した人でした。

 

  

もうお馴染みの曲ですよね。1949年発売。タイガースの応援歌の方が古い。(つづく)

「クイズ雑学王」より・・・案内標識板の穴

 

今日は4月20日。再スタートから7日目。

    

以前に録画してあった番組を整理していて、気にとまった番組。

2008年8月13日放映の「クイズ雑学王

この時どんなクイズが出たかは、すっかり忘れています。

でも毎回、「クイズ雑学王」のクイズ内容をこまめにブログに整理してくれている人がいます。

そういう人のブログは本当にありがたい。

8月13日の内容はここを見るとわかります。

「ミルヒーのブログ クイズ雑学王 8/13 あれこれ」67

  

この中で特に気になったクイズがこれ。

Q1-高速道路の案内標識板の文字に穴を開けている目的は?(一般正解率 7%)

Q1-穴に光を通し 逆光で見にくくなるのを防ぐため

   穴が開いていると、朝日や夕日の強い日差しを受けた時に光を通すため、

   例え逆光で影になったときでも文字に開いた穴を光が通ることで、

   文字が浮き上るため、見にくくなるのを防ぐことができる。
    

  

う~ん、どんな標識板だったか?どんな穴が開いているのか?

気になったので、DVDを再生して、何年かぶりに見てみました。

何枚か写真に撮りました。載せます。

RIMG0576
  

RIMG0578
  

RIMG0580
  

RIMG0581
  

RIMG0582
  

   

今度高速道路を走った時には、確かめてみよう。
   

 

2012年4月19日 (木)

イカリングとポテトサラダ

 

今日は4月19日。再スタートから6日目。

     

夕飯でイカリングとポテトサラダを作りました。

COOKPADのここを参考にしました。

「イカリング」72

「ポテトサラダ」41

   

ポテトサラダはずっと以前作ったことがあるような気でいましたが、

手がけてみて、初めて作っているなと感じました。

ジャガイモをすりつぶした後に、牛乳を入れるところがドキドキしました。

牛乳入れて大丈夫?と不安だったからです。

その後、水気を飛ばすため鍋でジャガイモを熱しました。

レシピには、5分ほどと書いてありましたが、焦げ付き始めてしまい、3分で強制終了。

難しかったです。

イカリングは、イカを捌くのが面白かった。

イカの体のつくりが少しわかりました。

   

奇妙な体だ。

口を取り囲むように足がある。

食べることに特化した形に思える。

足があって、頭があって、内臓がある。

この順番は、不思議だ。

イカは「頭足類」と呼ばれるのは、この順番がいわれのようである。

骨が1本?この1本でいいんだ。

三角形のひらひら。これがヒレ。ここを動かして泳ぐんだ。

内臓の先っぽに、真っ白な魂(たましい)のようなものがついていた。

あれは卵巣?卵? 柔らかく、とてもデリケートそうなものだった。

調べてみた。・・・・卵巣であった。チチコと呼ばれるようだ。

500gが660円で売っていた。

Img10394687594
http://item.rakuten.co.jp/ko-yo-/598530/#598530

理科の解剖をやっている気分。

  

イカリングのソースはウスターソース、みりん、オイスターソースで作りました。

この味がよかった。

最後に一つ残ったイカリングを、娘と息子がじゃんけんで争っているのは、

見ていて気分がよかったです。

5人の食事に2杯のイカは少なかったなあ。次は3杯ですね。

 

 

やっぱり春が似合う「春巻き」

  

今日は4月19日。再スタートから6日目。

     

夕飯で春巻きを作りました。

0
http://hideyukiyoshida.com/recipe/dish1-9.html

お店で春巻きの皮を買ってきました。

初めて買うので、お店のどこにあるか探しました。

餃子や焼売のあるところかと思いきや見当たらず、結局豚肉のある場所でした。

どんな状態で売っているのかもわからずに探したので、時間がかかりました。

     

自分で作ってみて、春巻きの中に何が入っているのかよくわかりました。

ごま油を使ってみて、少しでこんなに香るんだとわかりました。

本当は「細切り(ほそぎり)」と書いてあったのに、「細切れ(こまぎれ)」と間違えて、

材料をすべて小さく切り刻んでしまい、歯ごたえがイマイチでした。反省。

   

なぜ「春」?

これも調べました。Wikipediaにこう書いてありました。

元々は、立春のころ、新芽が出た野菜を具として作られたところから「春巻」と名付けられた。

時期的には、まあまあいい時に作ったことになりますね。   

 

 

「戦火の馬」・・・第一次世界大戦の特徴

  

今日は4月19日。再スタートか6日目。

     

映画「戦火の馬」を見てきました。

1177

馬の演技が上手でした。

馬がちゃんと演技していることに感心しました。

どうやって撮影しているのか興味あり。

最後にたて続けて泣ける場面がありました。

    

第一次世界大戦の特徴が随所にありました。

騎兵隊がサーベルを持って突っ込む作戦。

迎え撃つ機関銃。

大砲と塹壕。

ドイツ軍、イギリス軍のヘルメット。

毒ガス!

イギリスの戦車。ドイツ兵は恐れて走って逃げていました。

1995年に放映された「映像の世紀」(NHK)で初めて知った戦車。

戦場で、この戦車を見たら、恐怖だっただろうな。

主人公の馬も、この戦車を見て驚き、逃げます。

戦車の映像を見つけたので載せます。

    

   

この映画は、社会科の授業で利用できる。

授業で見せられなくても、映画なら「見るといいよ」と紹介できます。

・・・私はすぐに授業で使えるかどうかの視点で見てしまいます。   

がれき広域処理の広告

   
今日は4月19日。再スタート6日目。

        

3月6日の朝日新聞朝刊に、

環境省の広告が紙面2p分デーーンを載っていました。

RIMG0584新聞全体
   

左下のアップです。

RIMG0586左下
   

右下のアップです。

RIMG0588右下
   

※環境省の広域処理情報サイトはここ。

http://kouikishori.env.go.jp/

  

   

広域処理には賛成です。私に何かやれることは?

   

3月7日の朝日新聞にはこんな写真がありました。

EPSON087復興後の船

EPSON088復興前の船

被災直後と3月3日の比較写真。場所は気仙沼。

大型漁船に変化はありませんが、

周りはしっかり片付いています。

たいへんな作業だっただろうなと思います。

作業をされた方たちに敬服。

この写真を見ただけでも、がれきがたくさん出ることが想像できます。

 

「日本プロ野球復活の日」3 藤村富美男/伝統の巨人・阪神戦

    

今日は4月19日。再スタート6日目。

前投稿のつづき。

日本プロ野球復活の日~昭和20年11月23日のプレイボール」(鈴木明著/集英社文庫)より

   

藤村富美男(1916年8月14日 - 1992年5月28日)

   

昭和11年日本にプロ野球リーグが発足すると、

藤村はすぐタイガースに入り、ピッチャーに登録された。

しかし、気性としては、どうもバッターの方が柄に合っている。

昭和12年にセカンドに転向し、打撃専業になると、

忽ち三割を打ち、ベストテン3位に顔を出した。

豪快なツラがまえ、大きなジェスチャア。

藤村富美男は、まるで阪神タイガースを背負うために生まれてきた男のようだった。

しかし、藤村も戦争ばかりは勝つことはできない。

昭和12年に、中国と戦争を始めた日本は、

大量の若者を前線に送り込むことになった。

昭和14年、24歳だったガッチリした男は、1枚のハガキで、軍隊入りが決まった。

「野球で、少しは金も稼いだし、思い残すことはない。

だがな、おれは簡単には死なんぞ。生きて、生きて、生き抜いてやる」

藤村は、性格そのもののような言葉を残して、ユニフォームを軍服に着がえた。

軍隊に入ってからの藤村は、まさにその通りの運命だった。198p)

   

藤村選手は生き延びました。

生き延びて、再び阪神タイガースで活躍し、「ミスタータイガース」と呼ばれます。

   

    

伝統の巨人・阪神戦

  

いまでも多くのファンは、「伝統の巨人・阪神戦」という。

しかし、その「伝統」なるものは、実際には昭和11年から昭和15年までの5年間を

指したものだといってもいい。

11年巨人、12年阪神、13年阪神、14年巨人、15年巨人と、

優勝はそれぞれ入れ替わったが、2位はいずれも阪神か巨人のどちらかであった。

プロ野球初期の「伝統」を作りあげた名選手沢村、スタルヒン、三原、水原、白石、呉、

平山、川上、吉原、楠、千葉、中島、若林、西村、松木、藤村、本堂、景浦、山口、藤井

などという名前が、それぞれに個性と個性をぶつけ合って、

華やかに競い合っていたのもこの時期である。

それは、いま思えば日本が太平洋戦争へと突入する直前の、

一種の徒花(あだばな)のようなものだったかもしれない。206-207p)

   

かねてから疑問には思っていました。

いつ「伝統」が始まったのかを。

ペナントレースが始まったのが昭和11年。最初からの5年間だったのですね。

   

   

昭和20年8月15日に終戦。

その同じ年の11月23日。プロ野球はスタートしていました。

そこに集まった人たち、集まれなかった人たちの話がたくさん詰まった本でした。

「日本プロ野球復活の日」2 野口明/広瀬習一

  

今日は4月19日。再スタートから6日目。

前投稿のつづき。

   

日本プロ野球復活の日~昭和20年11月23日のプレイボール」(鈴木明著/集英社文庫)より

   

野口明(1917年8月6日 - 1996年10月5日)

  

戦後、彼は、中日ドラゴンズを中心にして昭和30年までプレーを続け、

そのファイトあふれるプレーは、

今でも名古屋っこの眼の底に、深く焼きついている。

僕が、「野口明のところに取材にゆく」

と、名古屋駅前のタクシーの運転手に告げたとき、この運転手は、

「あのキャッチャーの野口ですか。今でも私は、

ドラゴンズが日本シリーズで勝った時の野口を忘れていないと、伝えてください」

といった。

僕が出会った野口明は、温厚で飾り気のない、地味な喫茶店の主人だった。

彼は「私の記録なんか平凡ですよ」と語った。

確かに戦後の何年間か「四番」の座を占めてはいたものの、

野口の生涯打率二割五分、二十年間プロに在籍したという以外、

きわだった記録はない。

しかし、二十二歳から三十歳まで、彼は野球選手としての生命ともいうべき

貴重な八年の時期を、戦争で失っているのである。

「運が悪かったんですね」

と僕がいうと、彼は真面目な顔で、こう答えた。

「そうじゃありませんね。違います。私は運がよかったんですよ。

生き残って、野球でメシが食えて、今でもこうやって、

私を忘れないでいてくれる人がいるんだから・・・・。

私は、いまのプロ野球の人たちに比べても、恵まれていると思っていますよ・・・・」172-173p)

   

たくさんの戦死者を見てきたから言えるんだろうなと思います。

野口さんは日中戦争に参戦していました。

   

    

広瀬習一(1922年3月15日 - 1944年9月13日)

    

楠(安夫)には、同じ時期にいたもうひとりの名選手が忘れられない。

昭和十七年、巨人軍は五度目の優勝を遂げて、その面目を保ったが、

この原動力となったのは、実は「広瀬習一」という、無名の青年のせいであった。

この広瀬という青年は、昭和十六年の夏、西宮に遠征した巨人軍が泊まっている

宝塚の合宿に、グローブをひとつだけ持って現れ、

「ぼくの球を見て頂けませんか?」

と売り込んできたのである。

「とにかく、投げてみい」

というので、夕暮の河原に出て、楠はこの青年の球を受けた。

サイドスローから投げる球は自然にシュートして、手許で恐ろしいほど伸びてきた。

「職業野球に入ってもすぐに兵隊にとられるかも知れん。それでもいいのか」

と楠がきいた。青年は、

「それまでは、少しでもお金を頂いて、おふくろに送りたいです」

と恥ずかしそうに答えた。巨人軍はこの青年を、すぐに入団させた。233-234p)

  

昭和16年に9勝。17年に21勝。広瀬選手は活躍。

俊足も生かしたようです。

大津出身の彼は、巨人軍の東西移動で、大津駅に列車が停車するたびに、

ホームに降り立ったそうです。

そこには母親が来ていて、短い時間(数分間)会い、別れを惜しんでいた姿を、

多くの巨人軍選手がおぼえているとのこと。

母ひとり、子ひとりだったのです。

    

昭和17年末、わずか1年ちょっとの巨人のユニフォームをぬいで、

広瀬は戦場に出ていった。

「フィリピンに行った」

という風の便りはあったが、ほかに、この天才少年だった広瀬習一に関する情報をきいたものはいない。

百メートル十一秒の「疾風」も、米軍の弾には勝てなかったのだろうか。

それとも山中で、むなしく餓死していったのだろうか。

何しろフィリピンにいた日本守備隊の数は62万5千8百人。

そして何とそのうち49万8千6百人は、戦死、ないし戦病死したのである。235p)

    

お母さんはつらい思いをしただろうなあ。

広瀬習一さんについても、2009年に1冊の本が出ていることを知りました。

前投稿で紹介した石丸進一さんの本とともに、読んでみたくなりました。

 

 

戦火に消えた幻のエース―巨人軍・広瀬習一の生涯 戦火に消えた幻のエース―巨人軍・広瀬習一の生涯
上田 龍

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