« 「日本文明の真実」② 縄文土器はすぐれていた | メイン | 「日本文明の真実」④ なぜ日本では翻訳が活発に行われたのか »

2024年9月 6日 (金)

「日本文明の真実」③ 美祢市にある長登銅山跡

    

今日は令和6年9月6日。

  

前記事に引き続き、

「歴史の大ウソを打破する日本文明の真実」

(武田邦彦著/ビジネス社)から引用します。

    

長い引用です。

  

ピラミッドよりも奇跡的な奈良の大仏

前章で、日本の社会は世界の他の国ぐにとは異なり、階級社会といっ

た立体構造ではない。平坦な構造をしていて、そのなかで日本人全体

がひとつの方向を目指して努力してきたことを書きました。それが

2000年間の日本の発展につながり、やがて20世紀のはじめには、欧

米列強の植民地になっていない有色人種の唯一の国になることができ

た(タイという国も植民地支配を免れましたが)。特殊というか、非常

によい状態をもたらしたわけです。

このことをもうひとつ踏み込んで考察してみましょう。

たとえば会社を見ても、社長がものすごく威張っていて、従業員は金

で縛られていやいや仕事に従事させられている組織。そうではなくて

従業員が心の底からみんなで一緒に会社を守り立てていこうという組

織では、効率や成果がまったく違います。

全体の構造として、どちらが効率的に業績を伸ばすのでしょうか。

歴史的に見ても前者である中国やヨーロッパの体制より、日本が代表

である後者のほうが、より大きな力が発揮されるように思います。つ

まり後者のような社会のほうが、勝ち組であると考えています。

具体的な技術との関係で例をあげると、それは奈良の大仏です。

よくテレビなどでは「ピラミッドの秘密」などといって、クフ王のピ

ラミッドはどのようにしてつくられたかなどと特集をしています。も

ちろんピラミッドも高い技術力の賜物といえます。しかし技術的に見

れば、ピラミッドは石を切り出して角錐形に積み上げていくだけのこ

とです。

これに対して奈良の大仏は、まずは銅を溶かす必要があるわけで大変

です。というのも、銅の融点は1000度以上だからです。通常の窯では

そのような温度に至ることができません。登り窯などでようやく800

度、かなり工夫したら900度ぐらいまで上げることができますが、そ

のあたりが限界です。 あれだけ大量の銅を溶かすということは、容易

なことではないのです。

(60〜61p)

    

武田邦彦さんは、この本で日本人の良さを語っています。

奴隷制がなかった日本、階級社会ではなかった日本の良さを

書いています。

ここでは銅に着目しています。続きです。

  
銅の「同族元素」を理解していた奈良時代の人々

ところが、ここがまた日本および日本人の面白いところなのです。

じつは奈良時代にはすでに「同族元素」を理解していたのです。同

族元素というのは、化学的性質が似ている元素のことです。

学生時代に勉強した通り、元素を原子番号順に並べた周期表があり

ます。 同族元素は、周期表で同じ縦の列中に配列されています。こ

の縦の並びを「族」といいます。同族元素は、最外殻の電子が同じ

配列になっているため、よく似た性質をあらわします。

火山国である日本は金、銀、銅がよく採れる。金銀銅は同族元素で

あり他にも、鉛、水銀、ヒ素が、それにあたります。

したがって銅とはいっても、なかにはさまざまな同族元素が含まれ

ているのです。もちろん、当時の日本人が元素という科学的知識を

持っていたわけではありません。それでも同じ銅でも産地によって

違いがあることを知っていたのです。

現在の山口県に長登(ながのぼり)銅山という鉱山があります。こ

この銅は、ヒ素を含んでおりました。銅はヒ素を9%含んでいると、

融点がぐっと下がって900度ぐらいで溶けるのです。このことを奈

良時代の日本人は理解していて、しかもその銅を溶かす工場を長登

付近につくっています。

どういう工場かというと、坂になっているところの土を掘って、そ

こで松明(たいまつ)を燃やすようにして炉をつくったわけです。

銅山跡の中心的位置にある大切製錬遺跡は、大切谷内の小丘陵を壇

状に整地してつくられたことをうかがわせます。そこに選鉱作業場、

炉を中心とした製錬作業場、大溝、暗渠(あんきょ/排水溝)、柵(

さく)などが設けられました。その炉をつくったのは長登に住んで

いる農民で、ご普通の人びとであったようです。

今でも当時の様子を描いた絵が残っています。 棟梁みたいな人はい

るものの、あくまで日本流だし、組織だっているわけではなく、村

人が集まって作業しているといった風情です。

「大仏さんをつくるのだから、一緒にみんなでやろう」という感じ

でしょうか。 地元の伝承では、長登の「ナガノボリ」の語源は、

「奈良のぼり」。つまり奈良に送る銅を産出する、という意味であ

ったといわれます。 その光景がまるで目に見えるようです。

今は使用されていませんが、奈良時代の溶鉱炉の跡は残っています。

実際見に行くといかにも日本流の、全員参加の作業が目に見えてく

るようです。全員で銅の鉱石を運んできて、それを選別し、松明で

燃やして溶かし、一次溶融物をつくって、それを水路で奈良まで運

んでいく。銅はものすごく重たいですから、水路を利用した。この

一連の作業は、素晴らしく見事にシステマティックです。

鋳造で、銅剣や銅鍋などの大きさのものをつくるだけでも大変なの

に、ましてやあの大きな大仏です。 大変さの度合いが格段に違い

ます。こんな技術は世界に類例がないのではないか、と驚くばかり

です。

(62〜64p)

   

奈良の東大寺の大仏の銅は、ここから調達されたそうです。

長登銅山は、閉山を何度かしましたが、

復活を繰り返し、1960年まで使われた銅山だそうです。

現在は観光地化されているようです。

まだ知らない面白いところが日本にはあるんだなと思いました。

グーグルアースで調べます。

Img_7380

住所は、山口県美祢市美東町。

この市町名は、読み方に自信なし。

美祢市(みねし)、美東町(みとうちょう)でした。

コメント

コメントを投稿

最近の写真

  • Img_8523
  • Img_8520
  • Img_8519
  • Img_8518
  • Img_8522
  • Img_8521
  • Img_8517
  • Img_8512
  • Img_8510
  • Img_8508
  • Img_8507
  • Img_8504

楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉