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2024年8月25日 (日)

今泉新衛さんが造った用水路を確かめたい

   

今日は令和6年8月25日。

  

前記事の続き。

  

若宮八幡社にあった今泉新衛さんの石碑の前にあった

案内板です。

Img_7671_2

この文章が気になりました。

  

新衞は明治5年に佐脇村の白川にかかる念仏橋(現在の野川下橋)

上流から新池(現在の新池公園)へ用水を引く工事を完成させま

した。

  

白川はわかるけど、野川下橋と新池公園が不明です。

地図で調べました。Googleアースにしました。

Img_7248

野川下橋上流から新池公園まで用水路?

Googleアースで見ても、その痕跡がないような気がします。

何より不思議なのは、用水路を造った際に、

途中で佐奈川があること。

でもこうも考えられるか。

白川の野川下橋上流から用水路を造り、まず佐奈川へ。

佐奈川からまた用水路を造り、新池公園まで。

どうだろう?

  

  

とにかく実際に行ってみようと、

まず新池公園に向かいました。

昨日、8月24日のことです。

よく通る道から少し奥に入ったところにある公園ですが、

おそらく一度も行ったことがない公園。

楽しみでした。

  

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予想以上に広い公園で、どのように写真を撮ったら全体像が

わかるのかわからず。とにかく何枚か撮りました。

用水路の終点であったと思われるこの地に、

かつては池ができたのでしょう。新池だから。

でも現在は、池らしきもの、用水路らしきものは

ありませんでした。

明日は平日なので、豊川市の防災センターは開いているので、

明治時代に池があったかどうかチェックしたいです。

  

野川下橋にも行きました。

これについては、サイトで勉強してから行きました。

豊川市 東三河を歩こう 念仏橋

引用の引用をします。

  

「上佐脇部落の南方を流れる白川は、昔は野川といって、大雨が降れば

水量を増し、橋がないために、村人はたいへん難儀をしていました。

江戸時代のころ、村の青年たちは、このことを何とか解決したいと相

談し、近郷近在の家を廻り、念仏を唱えながら、喜捨を集めることに

しました。このこのわずかずつのお金を積み立て、何年もかかってつ

いに橋を完成させ、これに因んで名も「念仏橋」と決められました。

(中略)

昭和8年ごろ、農村振興土木工事が実施され、念仏橋を架け替えるに

ついて、地元の区長にも相談がありましたが、県の強い意向により、

「念仏橋」の名を廃して、「野川下橋」と決められてしまいました。」

「みと歴史散歩」より引用  

  

そんな歴史のある橋を見てきました。

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昭和45年1月改築とありました。

念仏橋が野川下橋になって2代目くらいかな。

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この上流から、用水路が造られたんですよね。

やっぱり明日は、防災センターの古地図を見て、

その用水路が地図に載っているか確かめたいです。

  







  

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