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2024年3月24日

2024年3月24日 (日)

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」⑥ 「高熱隧道」に朝鮮人が出てこない理由/キャニオンロードは10月1日から

   

今日は令和6年3月24日。

  

前記事に引き続き、

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)より、

印象に残った文章を引用していきます。

二〇二四年度から上部軌道を経て黒四ダムまでの「黒部ルート」(欅平

黒四発電所 黒部湖までの工事のために掘削した地下ルート)が一般観

光客に開放され、関電は年間一万人を受け入れる。現在でもV字谷の

景色は素晴らしく、欅平までのトロッコ電車での観光は海外の観光客

にも人気で、韓国人観光客も少なくないと聞いている。そうした人た

ちに日本人と朝鮮人が協力して電源開発が行われた事実と感謝を伝え

ることはできないだろうか。「黒四」建設は、関西電力の太田垣社長

が陣頭指揮を執り、社員一丸となって取り組まれ、戦後の高度成長を

もたらしたと称賛される。一方、「「黒三」」 建設は、戦時の国策事

業として取り組まれ、高熱隧道や雪崩事故など多くの困難を克服して

完成した。 「黒四」が太陽であれば、「黒三」は影のような存在では

あるが、「黒三」なしに「黒四」は存在しない。 峡谷の景色を満喫し、

黒部ダムや黒部湖を見ることができるのは、「黒三」のおかげだ。戦

時下、植民地から来た朝鮮人労働者が携わった電源開発の過酷な歴史は、

国内外の観光客にとっても興味深いことに違いない。

(187p)

  

この本の出版は2023年7月なので、

黒部宇奈月キャニオンルートのことについて触れています。

このルートは、有名な黒四ダムよりの以前に造られた

黒三、黒ニ、黒一の発電所、ダムを知るコースです。

黒三でたくさんの朝鮮人が働いていたことは、

せっかく行くのだったら、勉強しておくべきだと思います。

この本「黒三ダムと朝鮮人労働者」と「高熱隧道」、

そして「真説『高熱隧道』」もお薦めです。

(「真説〜」については、3月21日の記事を見てください)

   

黒部宇奈月キャニオンルートは、6月30日がオープンの日でした。

しかし、関係する橋が、能登半島地震によって壊れたため、

延期となりました。

黒部宇奈月キャニオンルートHP

ここを見ると、次のようなお知らせがありました。

Img_4830

今年は中止という話も聞いていたので、

10月1日のなり、期間は短くなりましたが、

ありがたいです。

行きたいですね。

7月頃に予約が始まるそうなので、情報を逃さないようにしたいです。

  

「黒三」ダム建設について書かれた小説に、吉村昭による「高熱隧道」

がある。一九六七年に刊行され、現在なお広く読まれている。 これを

きっかけに黒部峡谷を訪れる人は多いという。吉村昭は、現場、証言、

史料等を取材し、事実に基づいてストーリーを構成する「記録文学」

「歴史文学」 で定評がある。この手法は一九六六年の『戦艦武蔵』か

らスタートし、翌年発表の「高熱隧道」で新境地を拓いたと、自身が

「精神的季節』(一九七二)に書いている。 佐藤組から資料の提供と取

材の便宜を受け、「黒三」 建設当時と同じような環境の現場に入って、

高温の温泉湧出地帯を掘り進んだ日電や佐藤組の所長や現場監督など

の関係者から聞き取りを行い、その歴史的挑戦を主題に作品化した。

ヒト・モノ・カネ、そしてイノチまでも総動員してダムを完成させよ

うとする狂気は、国民を戦争に駆り立てる政治的社会的圧力と相似形

で、そこに読者を飲み込む説得力がある。

事実に基づいて書かれるから記録文学とされるのだが、多くの人はこ

れを事実、または事実に近いものとして読む。だが、記録文学はあく

まで小説、フィクションである。吉村昭は難工事でたくさんの犠牲者

が出たことは記すが、その中に朝鮮人が多く含まれるという事実には

一切触れない。これについては、新田次郎との対談(『波』新潮社一

九七〇年5・6号)で、次のように話す。「この工事に従事した労働者

の半ば以上は朝鮮のヒトですが、強靭な体力を駆使してついにトンネ

ル貫通を果たした。 今の考え方からすると、朝鮮の人を労働者に使

ったというと虐使したのではないかと考えがちですが、事実は比較に

ならないほど高い給与が魅力となった。ともかく朝鮮の人と書くと主

題が妙にねじれてしまう恐れがあるので、ただ労務者という形で押し

通しました。 また自分の主題を明確にするためフィクションとして

書きました」。 そして、「私は主題の足を引っ張るような要素は容

赦なく捨てて、主題を生かす事実だけを使っています」。「事実と

は異なっていても、私の小説に関するかぎりそれが真実なのです」

と続ける。戦時下、電源開発、難工事といったシチュエーションで、

植民地からの労働者というのは欠くことのできないファクターだと

思われるが、「高熱隧道」については朝鮮人が存在しないことが彼

の主題を明確にすると断言する。

記録文学や歴史小説はドキュメンタリーのようにとらえられがちで、

すべて事実と思って読む人も珍しくない。吉村昭の作品は現場にい

た人の証言が活かされていて迫真感がある。 それでも、小説は小説

である。制作意図に沿わないことは省かれ、作者が紡いだ構成のな

かで場面に合わせて会話が創られるにもかかわらず、文字になって

いることが真実だと思わされてしまう。そして、「記録文学」とし

て評価が高いがゆえに、ストーリーに不要だとして省かれた、実在

した朝鮮人の存在が消されてしまった。

(192〜193p)

  

吉村昭が対談で語っている朝鮮人を書かないという理由だが、私に

は後付けのように思われる。私の理解はこうである。吉村昭の「記

録文学」の手法では、当事者への直接の取材が必須である。だが、

取材しようにも、大多数は戦後すぐに故郷に帰ってしまって話を聞

くことができない。例え小説といえども、 いかに吉村昭であっても

取材なしでは書けなかったのではないか。こうして、吉村昭の意図

がどうであれ、多くの読者は、朝鮮人は存在しなかったと思ってい

るのだ。

(194p)

  

なぜ「高熱隧道」に朝鮮人が出てこないか。

この194pの説は納得です。

朝鮮人人夫の話が聞けてないなら、吉村さんは書けなかったんだ。

朝鮮人人夫がどう考えているのか、正確に掴めずに、書きなかったんだ。

だから、改めて書きますが、技師たちは、人夫が何を考えているのか

妄想を膨らませて、そして恐怖につながっていったんだと思います。

本「黒三ダムと朝鮮人労働者」⑤ 実は人夫の多くは朝鮮人だった

   

今日は令和6年3月24日。

  

3月21日の記事の続きで、

「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)より、

印象に残った文章を引用していきます。

   

北陸タイムス」は一九三八年八月二八日夜、阿曽原の隧道内でダイナ

マイトが自然発火で爆発し、南藤吉こと南慶述(35) 外五名の半島人

土工は無残にも頭部、顔面を粉砕して即死、山本政造他二名の内地人

は瀕死の重傷を負うた。さらに、同時刻には人見平(仙人谷)の隧道工

事でも土田武夫こと孫武述(38) 外三名の半島人土工が重傷を負う大

惨事が発生した」と、連続して起きているダイナマイト事故を報じた。

日本人もいたが、多くは朝鮮人だった。

(47p)

  

「高熱隧道」(吉村昭著)を読んでいる時に、全く出てこなかった

「朝鮮人」が、「黒三ダムと朝鮮人労働者」を読んでいると

ちょくちょく出てきます。あれれ?と思い出します。

  

  

体力を消耗するので、作業は一〇分から三〇分交替で行われ、坑口で

休み、塩分を補うために梅干を食べて出番を待って再び入坑した。そ

のため、一日の実動時間は短かった。火傷しないようにゴム合羽や肌

着を着ていたが、ケガや火傷、発破による事故は絶え間なく起き死傷

者が出ると、仲間に取りすがって「アイゴー、アイゴー」と泣いてい

たのを覚えている人もいた。

「アイゴー」とあるように、高熱隧道を掘り進んだのはすべて朝鮮人

の労働者だったと奥田淳爾さんは「黒部川水域の発電事業(二)」に書

いている。あまりに過酷な作業環境での重労働だったため、体力を消

耗するので水代りにおかゆを飲み、ゆで卵を食べ、牛乳が用意されて、

不調を訴えればカルシウム注射が打たれた。労働時間は一応八時間、

三交代で実働時間は三時間ほどだった。 ズリ出しで日給は一五円、切

り端は二〇円~二五円というから当時では破格の賃金だった。それば

かりか、「高熱隧道での仕事は、命知らずの朝鮮人だからできた」と

いわれ、技術力の高さに驚く人もいた。

(51p)

  

驚きです。「すべて朝鮮人の労働者だった」という証言。

そう言われてみたら、「高熱隧道」の人夫には名前がなかったことを

思い出します。

管理する技師たちには名前、日本名がありました。

人夫には名前がなかったぞ。

それも朝鮮人とわからないようにしたのかな。

「高熱隧道」を読んでいる時には、人夫は日本人のイメージでした。

自然にそう思っていました。

違いました。

そうなると、300名を超える犠牲者の意味が違ってきます。

朝鮮人は、全員ではないけれど、強制されてきた人たちもいました。

  

  

高熱のなかでの危険な作業であっても高賃金であれば、働きたいと思う

日本人はいたかもしれない。しかし、削岩機を使うような体力を必要と

する仕事ができる男性であれば、すでに甲種合格で戦場へと送られてい

た。「五◯キロもある削岩機を子どもでも抱きかかえるようにして持ち、

穴を穿つために切っ先を岩面に突き刺して、振動に耐えることのできる

頑丈な男はすでに朝鮮人しかいなかった」と、高熱隧道を請け負った親

方、金泰景さんの息子・金錫俊さんは話した。 朝鮮人でもできる人は限

られていたのだ。 そうした条件に合う労働者を確保するためには高賃金

で人を集める必要があったが、幸いにも話を聞きつけ全国の飯場から労

働者が集まって来た。 死と背中合わせの作業なのに逃げ出す者はいなか

った。日本人がいくら高いお金が払われようと働かなかった現場で、命

と引き換えに高賃金で働いたのだ。

(52p)

  

なぜ朝鮮人が多かったかの理由が書いてあります。

頭の中の現場の様子が、大きく変わってきました。

  

なお、著者が知るかぎりだが、富山県内の慰霊碑で朝鮮名のダム工事

犠牲者の名前が刻まれているのは、一九二七年着工、一九三〇年完成

の庄川水系祖山ダム(本体施行:佐藤工業、ダム事業者:関西電力)のみ

である。慰霊碑は一九三三年に建てられており、殉職者三一名のうち

朝鮮名は五名である。ここに名前を記し、追悼する。

権福永、朴黙、朴守黙、 金錬妓、安小龍  

  

人が死ぬのが当たり前だったかもしれない工事。

こういう人たちのことは、覚えておかなくてはね。

   

日本の側にも朝鮮人労働者を引き入れる要因があった。第一次世界大

戦後の好況時に一時的に労働力不足になり急激に導入が進んだ。 その

後も鉱山や土木、繊維関連工場の低賃金労働者として受け入れが続い

た。しかし、雇用の調節弁とされて安定的な職業に就くことはできず、

危険で低収入の職場で、「牛馬のごとき扱い」を受けた。いや、「牛

馬の方がましだった」とさえといわれている。

「韓国併合」以前から、日本人は朝鮮人を、人間というより都合のよ

い労働力と考え、同時に危険な存在として取り締まりの対象としてき

た。第一次大戦後に不況が広がり、日本人にも失業者が出るなかで、

政府は一九二三年五月に「朝鮮人労働者募集に関する件」 を公布、

日本人事業者に対して朝鮮人労働者の募集をできるだけ制限するよう

に伝えた。同年九月一日の関東大震災においては、「井戸に毒を入れ

た」「朝鮮人が暴動を起こして日本人を襲撃している」 など官憲によ

り意図的に流された流言飛語によって、民間人の自警団が数千人とも

いわれる朝鮮人や中国人の大量虐殺を行った。しかし、政府や行政は

殺戮行為の捜査も調査も行わず、日本人自身による反省もなかった。

それが一〇〇年後の現在に至るまでも犠牲者の人数がわからない原因

であり、日本人の反省と責任が問われるところである。さらにいえば、

朝鮮での義兵戦争に送り込まれた日本兵の影響を受け、植民地朝鮮へ

の蔑視、偏見が朝鮮人の命の軽視につながり、自警団を結成するなか

で容易く命を奪うことになった。

(78〜79p)

  

日本人は、労働力として朝鮮人を受け入れたが、

怖い存在でもあったことがわかります。

「高熱隧道」(吉村昭著)のラストでは、

人夫たちの集団に恐怖心を抱いた技師たちが、

人夫たちから逃げるシーンがラストです。

なぜあれほど、人夫たちを恐れたのかが、不明でした。

でも、朝鮮人だったと考えると、見えてきます。

多くの犠牲者を出して貫通させた隧道。

その労働環境は過酷で、命懸けの仕事場でした。

そんな場所で働かせた負い目が、恐怖となったのでしょう。

武田邦彦の「ホントの話」(155回)/フィンランドの英雄シモ・ヘイヘ

   

今日は令和6年3月24日。

   

サークルの時に教えてもらって、この動画を見ました。


YouTube: 【公式】武田邦彦の「ホントの話。」第155回 2024年2月23日放送 今回の内容は特に良いです(*自画自賛)

  

動画の最初のネタ。

Img_4825

サークルではこのことが話題になりました。

公立小学校教師からの投稿。

戦争において日本軍はアジアを守った、

併合した地域では教育を普及させ、

インフラ整備に力を注いだと話したところ、

上の先生から、そのようなことは教えないようにと言われたのです。

この先生は、最初は、日本軍は戦争をして、アジアで悪いことをしたと

教えていました。

しかし、教えていた子どもの曽祖父から次のように言われます。

「なぜ日本が悪いことをしたと教えるのか。

私たちは日本を守るために戦ったのに。

悪いことをしたなんて言われたら、日本を守って死んでいった仲間に

顔向できない」

この言葉を聞いて、その先生はしっかり勉強します。

そして、本当のことを知ったその先生は授業で教えました。

でも認められなかったのです。

嫌がらせもあって、現在この先生は休業中です。

武田先生は、戦争は勝者が歴史を作ると言っていました。

そうだよね、真実はどうだったかを調べて伝えることも大事ですが、

「勝者が歴史を作る」という視点も教えたいですね。

この動画は、他の勉強のきっかけにもなりました。

38分35秒くらいから、フィンランドとソ連との

冬戦争の話題になります。

武田先生が、冬戦争で活躍したフィンランドの英雄を

紹介していました。

名前は出ませんでした。

その人は狙撃兵です。

たった一人で、ソ連軍を止めた人です。

名前を出さなかったので、調べました。

「冬戦争 英雄 スナイパー」で検索したら、すぐにわかりました。

  

シモ・ヘイヘという名前でした。

Img_4812

Wikipedia シモ・ヘイヘより転載。

  

ソ連兵を542人射殺したと言われます。

その数は、世界戦史で最多と思われます。

ソ連兵に恐れられ、「白い死神」と呼ばれていました。

動画を調べると、幾つもありました。

その中からこの1本。


YouTube: 【白い死神】シモ・ヘイヘの狙撃能力と冬戦争

  

シモ・ヘイヘに焦点を当てた動画で、

詳しい説明をしてくれています。

冬戦争でシモ・ヘイヘが配属された場所はコッラ川。

Img_4813

ここで、フィンランド軍は32名、ソ連軍は4000名。

Img_4818

このとんでもない兵力差を、32名のフィンランド兵は、

雪を味方につけて、勝利するのです。

関連人物として2名。

32名の隊長。アールネ・ユーティライネン。

Img_4814

  

フィンランド軍の最高司令官。

カール・グスタフ・アンネルヘイム。

Img_4815

この2人もいつかしっかり調べたいと思います。

冬戦争における重要人物です。

ここに書き留めておきます。

今は、シモ・ヘイヘ。

  

Img_4819

シモ・ヘイヘは、顎を撃ち抜かれ、意識不明。

目が覚めたのは1週間後でした。

その直後、冬戦争は終了。

その後、再びソ連と戦争を始めたフィンランド。

継続戦争。

シモ・ヘイヘも参戦を望みましたが、怪我が癒えていなくて、

参戦を認められませんでした。

39歳で退役。

96歳で永眠。長生きでした。

  

コッラ川で対峙したソ連軍は、こう言っていたそうです。

Img_4821

なぜ150%か?

Img_4822

  

  

シモ・ヘイヘは、ソ連軍から奪った機関銃の扱いも上手く、

狙撃以上にソ連兵を射殺しているそうです。

1000人以上を射殺。

後年、このことで非難されたり、脅迫されたりします。

しかし、シモ・ヘイヘは何も言わなかったそうです。

唯一、こんなことを言ったそうです。

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こう聞かれたシモ・ヘイヘ。

次のように答えます。

Img_4824

「できる限り実行」

これが大事ですよね。

今の自分は、こう思うことが多いです。

特にこの2年間は、この気持ちですね。

継続したいです。

   

今日はまた知らなかった歴史を知りました。

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