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2024年1月 8日 (月)

20231104掛川城址 安政東海地震と平成の天守再建

   

今日は令和6年1月8日。

  

いよいよ冬休みもラスト。

今日はコマ回しを頑張ろう!

もちろん、このブログも書きたい。

う〜ん、最低でも5本を目指そう。

  

昨年の11月4日。

高天神城址に続いて、同じ掛川市にある掛川城址に向かいました。

Img_2954

少し離れた駐車場に自動車をとめて、

川沿いを歩くと天守閣が見えてきます。

 

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Img_2971

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この説明を読むと、天守閣の再建は平成5年のことです。

注目点は2つ。

嘉永7年(1854年)の城を破壊した地震について。

もう一つは、木造の再建について。

  

地震については、まずこのサイト。

中部災害アーカイブス 地震・大津波の痕跡、教訓から学ぶ

この時の地震の名前は「安政東海地震」

起こったのは、嘉永7年11月4日。

この地震の直後の11月7日に元号を安政にしているので、

安政元年でもあります。したがって地震名に「安政」がつきます。

西暦で1854年12月23日。時刻は午前9時15分頃発生。

引用します。

  

震源域は遠州灘東部で、規模はマグニチュード8.4。伊豆半島から熊野

灘沿岸、山梨・長野・滋賀・福井・石川県まで広い範囲で家屋が倒壊。

地震に伴って大津波が発生し、伊豆から伊勢志摩、熊野灘にかけては

甚大な被害をもたらした。波高は静岡県沼津で3~4m、三保で6m、

鳥羽市国崎で20m、尾鷲では6~10m。震度は静岡県沼津で6、焼津は

7、津・鳥羽は6とされ、余震は7ヶ月続いた。被害状況は、圧死・焼死

・流死者約1,000人、家屋倒壊及び流失約8,300戸、焼失約600戸。な

お、伊豆の下田ではロシアの軍艦ディアナ号が碇泊中だったが、津波で

大破して27日に沈没した。

  

ディアナ号が沈没した時の地震だったのですね。

掛川の被害も引用します。

  

掛川宿内丸焼けのうち19軒だけ残る。横須賀御城内大手櫓・御門塀破損。

民家1,118軒潰、1,557軒半潰、死者100余人。土蔵155焼失157、民家

焼失742軒。

  

掛川の震度については、震度6説と7説を見かけました。

震度7と言えば、1月1日の令和6年能登半島地震と同じ。

地震のエネルギーのマグニチュード8.4はとても大きいです。

  

掛川城の被害については、次のサイトがわかりやすいです。

弁護士永野海 法律と防災のページ 安政東海地震で損壊した掛川城 訪問記

掛川城の地震の被害については、

「遠江国掛川城地震之節損所之覚図」に詳細に描かれています。

この図は、二の丸御殿で見ましたが、

このブログを書いた人は、その写しを購入しています。

素晴らしい。

この図を見ると、天守閣の一番上の部分が壊れ、

石垣も崩れていることがわかります。

建物もほとんどが破損しています。

もう一つ、「御天守台石垣芝土手崩所絵図」を見ると、

天守閣の北側の石垣が崩れていることがわかります。

図の写真も示されていて、掛川城の被害の様子がよくわかるブログです。

よかったら、そちらを参考にしてください。

  

掛川城の再建には、白木ハナヱさんという方が、

5億円の寄付をした事で目処が立ち、

再建されたという話が書いてありました。

この詳しい話は、このサイトが参考になりました。

波と狛のつれづれ日記 掛川城の天守に物語あり!

  

このサイトを見ると、安政東海大地震で損傷した天守閣は壊されて、

その跡地には、平和観音像が置かれました。

その貴重な写真が載せてありました。

これは転載したい。実行。

Img_3657

白井ハナヱさんの寄付で再建が始まる部分も引用します。

  

現在、掛川市役所の敷地内には、昭和52年(1977年)から平成

17年(2005年)まで7期28年にわたって市長を務めた、榛村

純一氏の銅像が立てられています。 彼は在任中に掛川市の生涯学

習都市宣言をして、その後も東海道新幹線の掛川駅や東名高速道路の

掛川インターチェンジの開設などに尽力しました。 それらの事業

で市の財政にあまり余裕がなかった頃に、彼のもとに白木ハナヱさん

という、確か同時90歳ぐらいのお婆さんが訪ねてきていました。彼

女は「掛川城(の天守)を再建するのには、4億円ほどかかると聞き

ましたけど、そのお金は私が出しましょう」と申し出てきたのです 

4億円とはいっても、再建に必要な最低価格で、昔からある天守台の

上にそのまま鉄筋コンクリート製の天守を建てた場合そうなると思わ

れます。 ちなみにこれが木造となると、倍以上の費用がかかるの

ですよ。 白木さんはすでに「生涯学習の活動に役立ててほしい」

と言って1億5千万円を寄付していて、さらに東京に所有している土

地を整理したりして、合わせて5億円を用意しました。 榛村氏は

のちにその時の心境を「天にも上るような思いだった」と語っていま

した。 そのことが起爆剤となって、掛川城の天守の復元計画はト

ントン拍子に進んでいって、そのことを新聞などの報道で知った私も、

テンションが上がりまくりでした。

  

「やはり復元するのだったら、本格的にやりたい」ということで、江

戸時代初期に描かれた「正保城絵図」や天守台の発掘調査の結果、さ

らには掛川城をコピーしたとされる高知城天守を参考にして、図面を

画きました。さらに「史上初の本格的な木造復元」を謳い文句に、当

時としては珍しい木造で建てることになりました。そして市民からの

寄付も含めた総工費10億円で、平成時代に入ってから工事が始まり

ました。 しかし、既存の天守台は安政の大地震の損傷を受けてい

るうえに風化も進んでいて、まるごと造り変えなければなりませんでし

た。 そして着工から6年ほど経った、平成6年(1994年)に

完成しました。 白木さんはその翌年に亡くなったのですけど、美

しい姿でよみがえった天守を見ることができて、よかったです。

  

白木さんは、高齢でしたが、再建された掛川城を見ることができて、

よかったです。

この引用文に、私のもう一つの注目点の木造建築についても

書かれています。

城内で、こんな案内を見ています。

Img_2999

木造の復元というのは、数少ないのですね。

名古屋市が目指している名古屋城木造復元は、

いろいろ問題があるようです。どうなるかな。

  

こんなのも見ました。

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え、4ヶ所なの?

名古屋城の本丸御殿は?と思いましたが、

名古屋城の場合は、復元なので、

この4ヶ所の仲間に入れないそうです。

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