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2024年1月8日

2024年1月 8日 (月)

昨年11月14日「ザ・世界仰天ニュース」は圧力隔壁損傷説

   

今日は令和6年1月8日。

  

また昨年の古い話。

  

11月13日の記事です。

ここでも道草 明日の「ザ・世界仰天ニュース」に注目 日航123便墜落原因をどう語るか(2023年11月13日投稿)

11月14日放映の「ザ・世界仰天ニュース」の内容に

注目していました。日本テレビの番組です。

1985年の日航機123便墜落事故の原因は、

圧力隔壁の損傷ではなくて、

それ以外の原因があると、

だいぶ明白になってきているのに、

「ザ・世界仰天ニュース」はどの説を取るか注目でした。

驚きの内容でした。

堂々と圧力隔壁損傷説を出してきました。

これは、現在、裁判で争っている争点の、

一方に偏った意見を出してきたのです。

  

青山透子さんがメルマガで次のように主張しています。

11月18日です。

  

日本テレビの番組では、一言だけ裁判に触れましたが、その内容は
 
公平性を著しく欠く、情報を操作した番組でした。
 
「異常外力の着力点」という運輸安全委員会作成の公文書を一切無
 
視し、杉江弘(元日航パイロット)が監修、日航のパイロット仲間
 
を擁護すべく隔壁修理ミス等を補強しました。
 
私の取材では、日航整備士たちが大きな不満を持っており、たとえ
 
修理関係のトラブルがあったとしてもそれが直接原因ではなく、「
 
垂直尾翼に外力が11トンの力で衝突した点」を無視しているのは
 
納得いかない、と言っています。
 
さらに高浜雅己機長は、32分間もあの飛行機を操縦し続けたので
 
あれば、その半分の時間で他の空港にさっさと着陸できたはずです。
 
特に陸が危険であれば、海上を飛び、32分もあれば他の空港(名
 
古屋、羽田)に着陸可能です。横田基地も緊急着陸OKでした。
 
名古屋空港でも当時の管制官が緊急着陸OKと言っていた記録があ
 
り、または羽田空港(12分で引き返せる)も十分可能であったに
 
もかかわらず、古巣の自衛隊ファントムパイロットとの交信(この
 
部分がカットされている)で、山に向かい墜落させた責任は重いの
 
です。これは、機長の故意的な判断が加えられているといっても過
 
言ではない、と私は様々な証拠をもとに考えています。(中略)
 
こういった世論誘導型報道は、この日本において絶対にあってはな
 
らず、マスコミも責任を持ち、正しい情報を正しく民衆につたえな
 
ければ、今、世界で起きている戦争でのプロパガンダ行為同様であ
 
り、犯人に加担することになります。
 
この日本テレビのこの番組に関しては、吉備さんが「放送倫理・番
 
組向上機構」に訴えることになりました。同じく、監修の杉江弘に
 
対しても訴えます。
 
番組をご覧になった方も、ぜひ「視聴者のご意見」の欄に意見をお
 
書きください。ご意見が多いほど、吉備さんの思いが正しく判断さ
 
れますのでよろしくお願いします。 
 
放送倫理・番組向上機構  https://www.bpo.gr.jp/
  
  
テレビ番組で世論を誘導する内容でした。
  
監修担当の杉江さんです。
  

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「衝撃の原因!」「墜落事故の真実」と番組名にありながら、
  
従来の国、日航が言っている原因でした。
  
遅くなりましたが、私も初めてBPOに投稿してみようかな。
  
ちょっと酷かったです。
 
仰天ニュースに、仰天しました。
 
  
 

1961年生まれ?/山の奥の「藪そば」

   

今日は令和6年1月8日。

  

また昨年の話。

  

登山の帰りに、目の前で見かけた自動車。

思わず写真に撮りました。

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なぜ撮ったか。

「1961」に注目しました。

私が生まれた年です。

この車の持ち主も、同じ年生まれなのかなと

親近感を持ちました。

  

  

11月12日の話もここに書きます。

親戚の叔父さんと、叔父さんお勧めのお店に行きました。

「藪そば」です。

住所が面白い。

豊川市大木町山の奥109

です。確かに、豊川市の中では山の奥です。

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「茶そばにかけたこの人生」

格好いいなあ。

叔父さんが言うには、

以前は豊川駅前でお店を開いていて、

当時から人気店でした。

(豊川インター付近という記事もありました)

閉店したのですが、

惜しまれて、また開いてよという要望を受けて、

山の奥にあらためて開店したと聞きます。

とにかくお客が絶えないお店でした。

写真を見たら、また行きたくなりました。

20231111鎌ヶ岳・御在所岳登山 ナメコがあった

   

今日は令和6年1月8日。

  

また古い話。

昨年11月11日に、

仲間3人と鎌ヶ岳と御在所岳を登りました。

武平峠に車を置いて出発。

先に鎌ヶ岳でした。

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そして御在所岳に向かいました。

空が綺麗でした。

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黒い実が目立ちました。

Googleレンズで調べたら、イヌツゲと判定。

え、イヌツゲ?

調べたら、イヌツゲはブログに3回登場。

そして、この黒い実も撮影していました。

ここでも道草 6月中旬の花々20/イヌツゲ3(2012年7月12日投稿)

雌雄異株のイヌツゲ。

これは実ができているので雌株ですね。

   

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同行者がナメコだと教えてくれました。

一緒に採りました。

この木は枯れています。

枯れ木にナメコが生えることを初めて知りました。

後日、ナメコ汁で食べましたが、美味しかったです。

  

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御在所岳の山頂です。

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いつ以来だろう。

久々の頂上です。

御在所岳に登っても、この頂上まで来なくて、

下山することもあるので、久々です。

  

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頂上付近にある御嶽神社。

この狛犬を見て、恩師のH先生のフェイスブックの記事を

思い出しました。

11月11日の記事です。

文章を転載します。

  

豊川桜ヶ丘ミュージアムで奈良博物館の内藤航氏の狛犬の講演を聞き、

狛犬と獅子の違いを初めて知った。口を開けている阿形のが獅子、口

を閉じている吽形が、狛犬で1本の角がある。時代が新しくなるとそ

の角はなくなってきたという。一般に「狛犬」と言われている一対は、

「獅子狛犬」というべきかとも思った。

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この狛犬を見ると、向かって右側が口を閉じて角があるので狛犬。

左は、口が開いているか微妙ですが、獅子となります。

そうか、獅子と狛犬が向き合っているんだ。

  

この神社の裏側に、初めてのコースがありました。

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武平峠に行くのに、来た道を下山するのではなく、

沢谷峠を通って、ぐるりと回って下りていこうということになりました。

時刻はまだ12時。時間に余裕があったのでこのコースです。

4人とも、未知のコースでした。

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この岩、何かに見えませんか。

名前が「猪岩」です。

イノシシに似ています。

 

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変化に富んだいいコースでした。

御在所岳から直に武平峠に下りるより、

面白かったです。

  

以上で報告終わり。

20231104掛川城址 軍配 苦無 

    

今日は令和6年1月8日。

  

前記事に引き続き、掛川城址での話。

  

城内に展示されていた軍配です。

Img_3008

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「九曜卍紋鉄丸形」と説明されています。

「九曜(くよう)」とは?

goo辞書

ここには次のように書いてありました。

  

七曜(日・月・火・水・木・金・土)に羅睺 (らご) と計都 (けいと) の

二星を加えた名称。インドの暦法から起こり、陰陽道で人の生年に配

し運命の吉凶などを占う。

  

羅睺とは?

日・月の光を覆って日食・月食を起こすとされた阿修羅。

計都とは?

彗星の総称のようです。

  

九つの天体を九曜というようです。

そこから生まれた紋様。

それが軍配に使われているようです。

鉄でできているんですね。

  

御殿のショップで見かけた商品です。

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忍者の武器として有名ですが、

「苦無(くない)」というんですね。

weblio辞書 

このサイトによると、苦しみなく死ねることから、

この名前がついたそうです。

これは予想がついたな。

 

以上が掛川城址の話です。

最後に、駐車場で見かけた景色。

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高そうな自動車が2台。

すごく接近して駐車していました。

なぜこのような事態になったのかな。

運転席が接しています。

どちらも直接運転席には入れません。

不思議な状態でした。

20231104掛川城址 安政東海地震と平成の天守再建

   

今日は令和6年1月8日。

  

いよいよ冬休みもラスト。

今日はコマ回しを頑張ろう!

もちろん、このブログも書きたい。

う〜ん、最低でも5本を目指そう。

  

昨年の11月4日。

高天神城址に続いて、同じ掛川市にある掛川城址に向かいました。

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少し離れた駐車場に自動車をとめて、

川沿いを歩くと天守閣が見えてきます。

 

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この説明を読むと、天守閣の再建は平成5年のことです。

注目点は2つ。

嘉永7年(1854年)の城を破壊した地震について。

もう一つは、木造の再建について。

  

地震については、まずこのサイト。

中部災害アーカイブス 地震・大津波の痕跡、教訓から学ぶ

この時の地震の名前は「安政東海地震」

起こったのは、嘉永7年11月4日。

この地震の直後の11月7日に元号を安政にしているので、

安政元年でもあります。したがって地震名に「安政」がつきます。

西暦で1854年12月23日。時刻は午前9時15分頃発生。

引用します。

  

震源域は遠州灘東部で、規模はマグニチュード8.4。伊豆半島から熊野

灘沿岸、山梨・長野・滋賀・福井・石川県まで広い範囲で家屋が倒壊。

地震に伴って大津波が発生し、伊豆から伊勢志摩、熊野灘にかけては

甚大な被害をもたらした。波高は静岡県沼津で3~4m、三保で6m、

鳥羽市国崎で20m、尾鷲では6~10m。震度は静岡県沼津で6、焼津は

7、津・鳥羽は6とされ、余震は7ヶ月続いた。被害状況は、圧死・焼死

・流死者約1,000人、家屋倒壊及び流失約8,300戸、焼失約600戸。な

お、伊豆の下田ではロシアの軍艦ディアナ号が碇泊中だったが、津波で

大破して27日に沈没した。

  

ディアナ号が沈没した時の地震だったのですね。

掛川の被害も引用します。

  

掛川宿内丸焼けのうち19軒だけ残る。横須賀御城内大手櫓・御門塀破損。

民家1,118軒潰、1,557軒半潰、死者100余人。土蔵155焼失157、民家

焼失742軒。

  

掛川の震度については、震度6説と7説を見かけました。

震度7と言えば、1月1日の令和6年能登半島地震と同じ。

地震のエネルギーのマグニチュード8.4はとても大きいです。

  

掛川城の被害については、次のサイトがわかりやすいです。

弁護士永野海 法律と防災のページ 安政東海地震で損壊した掛川城 訪問記

掛川城の地震の被害については、

「遠江国掛川城地震之節損所之覚図」に詳細に描かれています。

この図は、二の丸御殿で見ましたが、

このブログを書いた人は、その写しを購入しています。

素晴らしい。

この図を見ると、天守閣の一番上の部分が壊れ、

石垣も崩れていることがわかります。

建物もほとんどが破損しています。

もう一つ、「御天守台石垣芝土手崩所絵図」を見ると、

天守閣の北側の石垣が崩れていることがわかります。

図の写真も示されていて、掛川城の被害の様子がよくわかるブログです。

よかったら、そちらを参考にしてください。

  

掛川城の再建には、白木ハナヱさんという方が、

5億円の寄付をした事で目処が立ち、

再建されたという話が書いてありました。

この詳しい話は、このサイトが参考になりました。

波と狛のつれづれ日記 掛川城の天守に物語あり!

  

このサイトを見ると、安政東海大地震で損傷した天守閣は壊されて、

その跡地には、平和観音像が置かれました。

その貴重な写真が載せてありました。

これは転載したい。実行。

Img_3657

白井ハナヱさんの寄付で再建が始まる部分も引用します。

  

現在、掛川市役所の敷地内には、昭和52年(1977年)から平成

17年(2005年)まで7期28年にわたって市長を務めた、榛村

純一氏の銅像が立てられています。 彼は在任中に掛川市の生涯学

習都市宣言をして、その後も東海道新幹線の掛川駅や東名高速道路の

掛川インターチェンジの開設などに尽力しました。 それらの事業

で市の財政にあまり余裕がなかった頃に、彼のもとに白木ハナヱさん

という、確か同時90歳ぐらいのお婆さんが訪ねてきていました。彼

女は「掛川城(の天守)を再建するのには、4億円ほどかかると聞き

ましたけど、そのお金は私が出しましょう」と申し出てきたのです 

4億円とはいっても、再建に必要な最低価格で、昔からある天守台の

上にそのまま鉄筋コンクリート製の天守を建てた場合そうなると思わ

れます。 ちなみにこれが木造となると、倍以上の費用がかかるの

ですよ。 白木さんはすでに「生涯学習の活動に役立ててほしい」

と言って1億5千万円を寄付していて、さらに東京に所有している土

地を整理したりして、合わせて5億円を用意しました。 榛村氏は

のちにその時の心境を「天にも上るような思いだった」と語っていま

した。 そのことが起爆剤となって、掛川城の天守の復元計画はト

ントン拍子に進んでいって、そのことを新聞などの報道で知った私も、

テンションが上がりまくりでした。

  

「やはり復元するのだったら、本格的にやりたい」ということで、江

戸時代初期に描かれた「正保城絵図」や天守台の発掘調査の結果、さ

らには掛川城をコピーしたとされる高知城天守を参考にして、図面を

画きました。さらに「史上初の本格的な木造復元」を謳い文句に、当

時としては珍しい木造で建てることになりました。そして市民からの

寄付も含めた総工費10億円で、平成時代に入ってから工事が始まり

ました。 しかし、既存の天守台は安政の大地震の損傷を受けてい

るうえに風化も進んでいて、まるごと造り変えなければなりませんでし

た。 そして着工から6年ほど経った、平成6年(1994年)に

完成しました。 白木さんはその翌年に亡くなったのですけど、美

しい姿でよみがえった天守を見ることができて、よかったです。

  

白木さんは、高齢でしたが、再建された掛川城を見ることができて、

よかったです。

この引用文に、私のもう一つの注目点の木造建築についても

書かれています。

城内で、こんな案内を見ています。

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木造の復元というのは、数少ないのですね。

名古屋市が目指している名古屋城木造復元は、

いろいろ問題があるようです。どうなるかな。

  

こんなのも見ました。

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え、4ヶ所なの?

名古屋城の本丸御殿は?と思いましたが、

名古屋城の場合は、復元なので、

この4ヶ所の仲間に入れないそうです。

最近の写真

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