本「アンゲラ・メルケル」③ メルケルがメルケルになった時
今日は令和4年12月24日。
またショックなことが・・・
「アンゲラ・メルケル 東ドイツの物理学者がヨーロッパの
母になるまで」(マリオン・ヴァン・ランテルゲム著
清水珠代訳 東京書籍)から朝から文章を引用して、
記事を1本仕上げたのですが、なぜか消滅してしまいました。
同じ記事をもう一度うつ気力はないので、
簡単に箇条書きにしておこうと思います。
1974年のサッカーワールドカップは、西ドイツで開催。
東西ドイツが戦うことがあった。メルケルはこの試合を見ている。
1988年。東ベルリンでブルース・スプリングスティーンの
コンサートが行われた。メルケルも観客の一人だった。
メルケルは離婚経験がある。一度目の式は教会で挙げたが、二度
目は違った。失敗したら次は違うやり方をするとメルケル。
メルケルは政治的な影響を受けない物理学を学ぶことに決める。
こんな内容でした。
気を取り直して、引用を頑張ります。
1977年、アンゲラは、3年前に知りあったウルリヒ・メルケ
ルという大学の友人の一人と結婚した。アンゲラはわざわざテン
プリンの両親のもとに帰り、縁のある人々を集めての祝宴を開き
教会で式を挙げたが、人生の一大事とはあまり思っていなかった。
二人は1982年に離婚した。
(74p)
メルケルがメルケルになったのは、この時でした。
離婚しても、彼女はメルケルを名乗りました。
東ドイツの日常生活には、つねに「この人は今私をスパイしてい
るのか?」という問題がつきまとった。いつ何時もこの疑念とと
もに生活しなければならなかった。
(78p)
東ドイツの監視社会をメルケルは体験していました。
メルケルが首相になったとき、二コラ・サルコジ元大統領の外交
顧問だったジャン=ダヴィッド・レヴィットは、ドイツ映画『善
き人のためのソナタ』について彼女に尋ねた。あるシュタージ職
員が反体制派と疑われる芸術家を監視するうち共感を覚えるよう
になるというストーリーで、2007年米アカデミー賞外国語映
画賞に輝いた、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
監督による秀作である。「日常生活はあんな感じだったのですか
?」とレヴィットが聞くと、アンゲラ・メルケルは答えた。「い
いえ、あれよりもっとひどかったわ。映画みたいに、こちらが感
情移入してしまうような善良なシュタージ職員なんかいませんで
した」。
(79p)
この映画が観たくなりました。
監視するスパイ、シュタージはこの本の中にちょくちょく出てきます。
(トーマス)デメジエールとアンゲラは1990年4月29日に
モスクワに着いた。デメジエールはロシア語のできるアンゲラに、
生のソ連の声を拾ってくるように命じた。「バスや地下鉄に乗っ
て、町の人と話をしてほしい、ロシア人がドイツの再統一につい
てどう考えているかを知りたいんだ」。その後、アンゲラ・メル
ケルは任務を終えて戻り、ひと言で報告した。「『スターリンは
第二次世界大戦に勝ったが、ゴルバチョフは負けようとしている
(スターリンが勝って手にしたものをゴルバチョフがみすみす逃
そうとしている)』とロシア人は言っています」自宅のアパート
で、デメジエールはこの深い言葉をあらためてかみしめていた。
「今でもロシア人はそんな風に感じていると思います。ヨーロッ
パ人はゴルバチョフが大好きですが、ロシア人は大嫌い。そのぶ
んプーチンが好きなんです。プーチンがやり返しているという印
象がありますからね」
(100~101p)
ゴルバチョフさんは西側諸国、そして日本でも評判のいい人です。
それなのに、ロシア本国では不人気なのですね。
ゴルバチョフさんが亡くなられた時のロシア人の反応は、
それを物語っていました。
漁師たちは新人候補アンゲラに不安を打ち明けた。魚の価格や漁
獲可能量割当てといった新たな問題が持ち上がっていた。アンゲ
ラはメモも取らず話を聞き、「皆さんの問題は肝に銘じて持ち帰
ります。何もお約束はできませんが、何ができるか検討します」
との言葉を残して立ち去った。
(112p)
これがメルケルだそうです。簡単に約束はしない。
小さな約束をして、大きな成果をあげるのが、メルケルの主義です。
つづく
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