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2022年6月23日 (木)

「ももちゃんのピアノ」② まだ死語ではない「庭球」

     

今日は令和4年6月23日。

   

前記事に引き続き、

「ももちゃんのピアノ 沖縄戦 ひめゆり学徒の物語」

(柴田昌平文/阿部結絵/ポプラ社)より。

  

アメリカと戦った最初の1年、つまりももちゃんが学園の1年生の

ときは「アメリカに勝った、勝った」というニュースばかりでした。

でも、ももちゃんが2年生になるころには、日本軍がアメリカ軍に

各地で負けはじめたのです。そして、日本が負けてくるにつれて、

国民のくらしはきびしく制限されるようになりました。「あれをや

ってはいけない、これをやってはいけない」と、学校生活もだんだ

ん息苦しくなっていったのです。

まず、「アメリカ文化は敵の文化だ」といって、いろいろなことが

禁止されていきました。たとえば、英語はすべて日本語にいいかえ

られました。バレーボールは「排球」に、テニスは「庭球」に、バ

スケットボールは「籠球」に、といったぐあいです。(中略)

さらに、あこがれの曲『銀波』も禁止されました。敵国アメリカの

音楽家がつくった曲だからという理由で、ひくこともきくことも許

されなくなってしまったのです。

ーーーひめゆり学園のグランドピアノで『銀波』をひくことが夢だ

ったのに・・・・。

ももちゃんはがっかりです。

(58~59p)

   

戦争の時の様子がわかる文章です。

私のチェックポイントは「庭球」です。

私は数年前に、中学校で、生徒に「庭球部」と言って

通じなかった体験があります。

「庭球」が死語になりつつあるんだと思いました。

 

その「庭球」という言葉が生まれたのは、戦時中だったのか。

それとも昔からあった言葉なのか。

そこに疑問を持ちました。

  

調べてみました。

このサイトを参考にしました。

早稲田大学庭球部 庭球部の歴史

庭球部という名前のチームが存在します。

まだ死語ではありません。

創部されたのが1902年(明治35年)です。

庭球という言葉は、明治には存在しました。

テニスが敵国の言葉だからと言って、

無理やり生み出された言葉ではなかったのです。

  

そういえば、このサイトにも載っていた次の言葉。

  

この一球は絶対無二の一球なり

されば身心を挙げて一打すべし

この一球一打に技を磨き体力を鍛へ

精神力を養ふべきなり

この一打に今の自己を発揮すべし

これを庭球する心といふ

  

早稲田大学庭球部のOB福田雅之助さんが部に贈ったものだそうです。

この言葉、最近の勤務校の校長先生の便りに引用されていました。

テニスをやる人にとっては、大事な言葉だと聞きます。

ここにもしっかり「庭球」の言葉が記されています。

  

「庭球」は死語ではない。

そう思って、これからも胸をはって「庭球」を使っていこう。

「?」と思われたら、ちゃんと説明しよう。

「テニス」のことを「庭球」とも言うんだよと。

知識として教えてあげちゃおう。

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