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2021年12月

2021年12月12日 (日)

番画〈551〉〈554〉:きくドラ「東海道中膝栗毛」

     

今日は令和3年12月12日。

    

授業で、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」を教えます。

やっぱり作品を紹介したいです。

動画にないかと探しました。

ありました。

  

きくドラ 十返舎一九

☝ このサイトで3つのお話を聞くことができます。

番画扱いです。

  

〈551〉十返舎一九「東海道中膝栗毛ー小田原の宿ー」

 

〇五右衛門風呂のお話。

 このドラマを聴かせるためには、五右衛門風呂がどんなものか

 あらかじめ教えておく必要がある。

 この図がわかりやすいかな。

Bath04

https://www.kitchen-bath.jp/changesbath3   

    

〈552〉十返舎一九「東海道中膝栗毛ー御油から赤坂ー」

  

〇地元豊川市のきつねの話。

 東海道五十三次の中で、最も近い宿場町での出来事。

 関心をもって聴いてくれるかな。

  

   

〈553〉十返舎一九「東海道中膝栗毛ー宮から桑名ー」

  

〇桑名へ行くには船旅だ。

 そんな説明も加えながら、この話も聴かせたい。 

  

  

「きくドラ」は「ラジオドラマで聴く、名作文学」というのが

コンセプト。

上記3作品は、今から5~6年前の作品です。

今も作品を更新しているのかと思ったら、次の作品は今年の作品でした。

今も続いていた。

  

きくドラ 曲亭馬琴

   

〈554〉曲亭馬琴「南総里見八犬伝 芳流閣の決闘」

    

〇授業では「南総里見八犬伝」も教える。

 私たちの世代で、「南総里見八犬伝」と言えば、

 人形劇の「新八犬伝」だ。次の記事で書きたい。

初めて中学校の公式の大会で審判をしました

     

今日は令和3年12月12日。

    

昨日は生まれて初めての体験をしました。

   

中学校の公式のバスケットボールの大会で、

初めて審判をしました。

他の先生から、審判服を借りて、

格好も本格的に装ってやりました。

最初は緊張しましたが、

いざ始まって、笛を吹き始めると、

いつも通りに出来たと思います。

  

退職3カ月余り前に、いい体験ができたと思いました。

 

バスケットボールの審判は、

新任の頃からやっていたことです。

教員生活で身につけたスキルの一つだと思います。

笛一つでゲームを支配できるのは、

ちょっと快感です。

2021年12月11日 (土)

「御巣鷹山と生きる」③ 美谷島さんもきっと揺れている

     

今日は令和3年12月11日。

        

前記事に引き続き、

「御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年」

(美谷島邦子著/新潮社)より引用します。

   

  

2008年10月には、日航安全啓発センターで、初めて日航の社

員に対して話をした。新人研修で客室乗務員45人にむけての講話

だった。社員に話をしようと思ったのは、墜落時刻で止まった時計

や壊れたメガネなどの展示された遺品を、ただ見るだけでなく、そ

こにある物語を知ってほしいと思ったからだ。健が飛行機に乗った

日から遺体が発見される日までのこと、そして、健の遺品のことを

中心に話した。

遺族が話すことで、安全啓発センターにおかれた事故の残骸や遺品

や遺書が初めて生きたものになると思った。

(173p)

   

美谷島さんのスタンスは、事故の原因は日航やボーイング社にあり、

事故再発がないように日航と接しているように思えます。

しかし、青山透子さんの説で行くと、日航も被害者であり、

この事件に巻き込まれた感じです。

日航と深く関わってきた美谷島さんは、長年考えて行動してきたことと、

そうではないという説の間で、揺れているのだと推察します。

次のような文章もあります。

   

事故の原因究明と日航の関係を話すと、私は、この事故の大きな原

因は、日航がボーイング社の修理を妄信したことではないかと思っ

ている。日航の内部には、「この事故はボーイングのせいで起きた」

と考えている社員がいることをかなり後で知ったが、事故後も「メ

ーカーを妄信しない」という反省が活かされているのか疑問だ。会

社のトップは、内部の犯人探しや、ボーイングへ責任を押し付ける

ことで、この事故を終らせたいと思っていなかったか。会社として、

メーカーを妄信せずに、運航輸送業者としての責任を真摯に謙虚に

受け止めていたのだろうか。

(179p)

  

事故後25年目に発刊された本では、

美谷島さんはこのように考えていました。

青山透子さんや小田周二さんの説が真相ならば、

これらの考え方は的外れになってしまいます。

それは受け入れられないことなのではないか。

  

  

25年間で感じたことは、遺族の気持ちは、環境と心境の変化によ

って揺れるということだ。最初は実名、何年か後に匿名を希望する

遺族がいる。逆もある。また、家族の中でも考え方が違う。だから

こそ、いつも遺族の了解が得られるように努力してほしい。

(196p)

  

青山透子さんや小田修二さんの説によって、

遺族の気持ちは大きく揺れていると思います。

  

  

特に、8・12連絡会の立ち上げの時から付き合いのある記者たち

には、特別の思いがある。8月12日生まれだという、当時新人だ

ったTBSテレビの松原耕二記者は、健の部分遺体が見つかった日、

カメラを回さないで、12月の寒い体育館で大粒の涙を流していた。

(197p)

   

現在「サンデーモーニング」に出演している松原耕二さんは、

1960年8月12日生まれでした。

TBSは定年退職しています。

松原さんにはこのような体験があったのですね。

   

  

最後に3つの文章を引用します。

   

事故後10年目ぐらいから、灯籠流しなどの8・12連絡会行事に、

日航の登山支援班の人を中心とした日航の協力が始まった。

川に流れていく燈籠は、人々のやさしさ、犠牲者の命の尊さを後世に

繋いでくれる。520の御霊が、導いてくれるのだろうか。

日航の女性社員が川に入って、灯籠が流れやすいように道筋を作り、

川下では、日航の男性社員が、真っ暗な川面から灯籠を回収する。こ

れらの行事を通して安全を求める気持ちは、被害者も加害者も同じだ。

(147~148p)

   

大事故を起こした会社と肉親を亡くした遺族との心の出会いが、御巣

鷹の山道で、日航の手作りの山小屋で始まっていた。

私は、山小屋に泊まった日のことを今でも思い出す。日航が、ビルの

中で考えるのとはまったく違う遺族支援があった。(中略)

山では、日航の登山支援班の社員と遺族が声を交わした。山が、両者

の心を結ぶ唯一の場所になり、事故を起こした会社と遺族との関係は、

劇的に近づくことになった。この山にいる日航の男たちは、「山を守

ろう、亡くなった人たちの場所を守ろう、賠償とは関係なく」と言っ

ているような気がした。

(150~151p)  

    

毎年、11月中旬から翌年の4月末まで、御巣鷹の尾根の登山道は、

閉じられる。この25年間で、私の御巣鷹山への登山回数は、146

回となった。20年前、健の墓標の脇に植えた30センチのもみの木

は、今、5メートルを超えた。

2009年11月14日、そのもみの木にクリスマスの飾りつけをし

て、夫と雨の中、山を下る。途中、日航の登山支援班が、新人の社員

を連れて「鎮魂の鈴」を片付け、雪に覆われて傷まないように墓標の

整備をしている。

会社は存続の危機にあり、毎日毎日、再建に関する報道がなされてい

る中だった。しかし、社員は黙々とこの御霊の山にきて作業していた。

毎年繰り返される御巣鷹の閉山風景。

私は、「ありがとう」とつぶやく。

(158p)

       

これらの文章を読むと、青山透子さんに「日航の広告塔」と

言われてしまう美谷島さんの原点があるように思えます。

美谷島さんもきっと揺れていると思います。

  

以上で「御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年」からの

引用を終えます。

   

 

2021年12月10日 (金)

「御巣鷹山と生きる」② 不幸の連鎖

    

今日は令和3年12月10日。

    

前記事に引き続き、

「御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年」

(美谷島邦子著/新潮社)より引用します。

     

   

会に寄せられる手紙には、残された者の回転の狂ってしまった今の

生活がうちあけられ、苦しみがつづられています。

2人の肉親を失い、事故後病気になり亡くなった人。自殺した人。

心労のため肉親の不幸が重なった人も多くいます。家庭内のトラブ

ルが、事故後すぐに起き、心安まることのない人。根無し草のよう

に住居が定まることのない人。何とか立ちなおろうとしながらも、

幸せの歯車はあの日以来なかなかかみあってくれません。

最愛の人が欠けたために生じたその穴は、埋まるどころかますます

大きくなります。夫が亡くなり、妻は婚家を出、姓も名のれず、お

墓も夫の実家のもとにあり、残るのは夫の想い出だけですという人。

やさしかった息子が亡くなり、嫁は家を売り、年老いた母は今小さ

なアパートで一人暮らし。家賃も滞る有様の方。

(63p)

   

事故死という不幸がきっかけで、不幸が連鎖することがあるよなと、

この文章を読んで思いました。

事故さえなければと思った人がたくさんいたと思います。

事故は事故だけで終わりません。

  

  

8・12連絡会の方針は、当初から「遺族同士のゆるやかな連帯」

だった。さまざまな意見があったが、大方一致したところでまとめ

るという「ゆるやかな連帯」が、大切な方針であり続けた。そして、

遺族の心の中にある「事故を忘れたい」という思いと、「絶対に忘

れない」という思いを大切にしていきたいと思っていた。

(75p)

   

現在、8・12連絡会はどんな方向を向いているのだろう。

撃墜説に対してどのように思っているのだろうか。

「忘れたい」「忘れない」の気持ちは、当事者の気持ち。

わかるような気がします。

  

  

20年が経っても、夫を亡くした妻は、「2人の息子を成人させ、

孫たちにも囲まれていても、夫婦一緒の姿をみるとあなた、側にい

て欲しいよ、淋しいよと思う。言葉にすると今も涙がでる」と書く。

(82p)

  

これもわかるような気がします。

当事者の気持ちがたくさん載っていた本です。

  

  

小川領一さんは、海外で勉学した後、鹿児島に移住、自分の会社を

立ち上げた。今、国内外の環境、国際協力分野で精力的に働いてい

る。事故で、父母と妹が逝き、弟と2人残された。遺品のカメラに

は、父親の哲さん(当時41歳)が写した写真があった。事故から

5年後、「事故防止の一助に」と写真を公開した。窓外の雲、東京

湾、富士山と続いた写真は、6枚目で急を告げている。酸素マスク

をつけた乗客と乗員の姿がある。貴重な写真だ。

(85p)

   

青山透子さんも著書に掲載した写真だと思います。

美谷島さんも同じものを見ています。

  

 

遺族の1年は、8月12日からはじまり、翌年8月11日に終わる。

(91p)

  

これも当事者の貴重な気持ち。

そうなんだろうなと寄り添うことはできます。

  

 

事故の第一現場の相模湾上空から落下して海中に沈んでいる残骸を、

徹底的に回収するように求めた。

(100p)

しかし、そんな遺族の思いとは離れて、CVR(音声記録)、

DFDR(飛行記録)の生テープは、ともに公開されないままだっ

た。公正な事故調査のためには、プライバシーの問題等を考慮した

上で、なんらかの方法で公開して欲しいと思った。

(111p)

    

青山透子さんと一致する意見です。

でもまだ回収されていなくて、公開もされていません。

  

  

つづく

  

  

2021年12月 9日 (木)

「御巣鷹山と生きる」「けんちゃんのもみの木」読破

    

今日は令和3年12月9日。

    

美谷島邦子さんの本を2冊読みました。

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「御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年」

(美谷島邦子著/新潮社)

  

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「けんちゃんのもみの木」(美谷島邦子・文/いせひでこ・絵/

BL出版)

   

日航機123便墜落事故で、9歳の男の子を失ったお母さんです。

「御巣鷹山と生きる」から引用していきます。

    

遺族会というと、闘争している印象がある。また、いつも下を向い

ている姿が想像される。しかし、第1回集会で、55歳の夫を亡く

し、一人ぼっちになった妻はこう言った。「事故後3カ月間で喪服

を何度も着た。火葬、個人葬、社葬、合同荼毘・・・・その度に悲

しみに打ちひしがれた姿を期待された。でも、もう下を向きながら

生きていくことに終止符を打ちたい。しっかりと前を向いて、なぜ、

最愛の人が死ななければならなかったかを世に問い、亡くなった人

の分まで生きたい。遺族という文字は削ってください」。

集まった遺族は15人。皆、初対面。この発言で、会場のあちこち

でもれていたすすり泣きが一瞬止まり、静まりかえる。しばらくし

て拍手がおこった。彼女の訴えが採用され、「8・12連絡会」と

命名された。

(36p)

  

青山透子さんが発信する「日航123便墜落の真相を明らかにする会」

の事務局便りの中で、

「日航の広告塔と化してしまった8・12連絡会の美谷島氏」と

表現している美谷島邦子さん。どんな方なのかと思って、

この2冊を入手して読みました。

「8・12遺族会」ではなくて「8・12連絡会」となった

いきさつが書かれた文章です。

そして「8・12連絡会」は36年が過ぎた今も存在しています。

それはすごいことだと思うのですが・・・・。

  

 

「8・12連絡会」の第1回集会で発表されたアピール文に

次の文章がありました。

  

事故調査委員会の原因究明を厳しく監視し、事故原因が曖昧にさ

れてしまうことがないよう見守りながら、日航とボーイング社の

責任を問うていきます。

(37~38p)

   

「8・12連絡会」と青山透子さんの活動は一致すると

思うのですが・・・・。

  

  

ただ「8・12連絡会」は、事故原因が圧力隔壁破壊説だと

している点が気になりました。

   

1985年12月に公表された運輸省事故調の第3次中間報告で、

事故前に隔壁に合計29センチに及ぶ亀裂が存在していたことも明

らかにされた。結局、若干の疑問を残しながらも、告訴の基本とな

る事実関係としては、圧力隔壁破壊説以外の選択肢はなかった。

(54p)

   

これは1985年時点の見解です。

情報が限られた段階では、こう考えるのが当然だったかも。

ただこの文章中でも「若干の疑問を残しながら」」と書いているように、

客室で急減圧がなかった点は疑問に思っています。

現時点で「8・12連絡会」はどんな見解をもっているのでしょう。

    

  

人命を預かる航空輸送産業に対して、安全を求めすぎるということ

はない。私たちは、事故の原因を自らの眼で確認し、事故再発の防

止策を促す活動をしたいと考えていた。

そのため、飛行機のメカニズムについても自らが学ぶ必要性を感じ、

機械に強い20代の遺族たちが集まり、8・12連絡会に「原因究

明部会」という分科会を発足させた。あいまいな調査を許さないと

いう強い決意のもと、事故調査委員会の動きを注視した。連絡会の

目的である、「事故の原因の究明を促す」というアピールを実現さ

せるために、弁護士を含めた遺族たちの航空工学への挑戦が始まっ

た。

(60p)

   

この分科会は、日航123便撃墜説には至らなかったのだろうか。

  

  

つづく

2021年12月 5日 (日)

番画〈548〉〈550〉:チェインレンサーというおもちゃ 世界のコロナ遺児の実態 「青天を衝け㊳」日清戦争の時の日本

    

今日は令和3年12月5日。

    

番画です。

    

〈548〉フィッシャーズ

コースを進むたび道が変形していくやつがカッケェwww #チェインレンサー #SEGA #おもちゃ #Shorts #PR
YouTube: コースを進むたび道が変形していくやつがカッケェwww #チェインレンサー #SEGA #おもちゃ #Shorts #PR

 

〇フィッシャーズの動画を見ると、今のトレンドを知ることができる。

 「チェインレンサー」は面白いおもちゃのようだ。

 ドミノにも通じるところがある。

 ただ値段が高そうだ。

〇関連動画を1本載せる。これは番画扱いせず。


YouTube: 興奮せずにはいられない!新感覚・新世代アクションホビー「チェインレンサー」|セガトイズ

〇フィッシャーズはSEGAから提供してもらって

 やっているんだろうな。

 うらやましい状況だ。

 彼らはきっと運がいい人たちだ。

   

 

〈549〉ニュース地球まるわかり

  (2021年12月5日放映)

  

〇特集 世界のコロナ遺児 実態は

 インドネシア インド アメリカ

 日本にいるとあまり感じないコロナ遺児。

 他国では深刻なことになっていた。

 こういうことを知らせるのも、授業では大事だと思う。

〇旅する世界 フランス 願いかなうクリスマスマーケット

 16世紀から行われてきたクリスマスマーケット

 昨年は中止。売り上げがなくてピンチに陥ったが、

 窮状を知った全国からお菓子の注文があって廃業しなくてよかった。

 今年は開催されている。

 

  

〈550〉大河ドラマ「青天を衝け 38 栄一の嫡男」

  (2021年12月5日放映)

  

〇この回で注目したのは2点。

 日清戦争(1894年~1895年)の時代が描かれていた。

 日本の勝利に、街中では市民が大喜びをしていた。

 あのような雰囲気だったんだ。

 そしてもうひとつが、徳川慶喜が東京に30年ぶりに戻ったこと。

 1897年(明治30年)のことだった。

 徳川慶喜はそんなに長く静岡にいたのだと知る。

 徳川慶喜が亡くなるのは、1913年(大正2年)。

 次回は徳川慶喜と渋沢栄一が濃密に接する。

 徳川慶喜の伝記作成が始まる。

 


 

番画〈545〉〈547〉:初号機で発見生活の変化 伊能忠敬の紹介動画 フィッシャーズまたもアスレチック挑戦

        

今日は令和3年12月5日。

   

番画です。

   

〈545〉「池上彰のニュースそうだったのか!!」

  (2021年12月4日放映)

  

〇「初号機」で発見 生活の変化 この先は?

〇さまざまなものの第1号機「初号機」が紹介された。

〇洗濯機

 初号機は1930年(昭和5年)誕生。

〇掃除機 

 初号機は1931年(昭和6年)誕生。

〇冷蔵庫 

 初号機は1930年(昭和5年)誕生。

〇電子レンジ

 初号機は1961年(昭和36年)誕生。

 当時の値段で125万円。現在の価格で約663万円。

〇これらの家電の進化によって、女性の働き方が大きく変わった。

 共働きが当たり前になってきた。

〇テレビ

 カラーテレビの発売は1960年(昭和35年)

 初号機は1953年(昭和28年)誕生。

〇携帯電話

 1985年(昭和60年)ショルダーホン

 初号機は1987年(昭和62年)誕生。

 1994年から携帯電話は買い取り制になった。

 それまでは高価だったのでレンタルだった。

〇パソコン

 昔は電話回線でつないでいた。

 接続に時間がかかった。

 AIによって代替される仕事。生き残る仕事。

 生き残る仕事の中に保育士があった。わが娘の仕事は大丈夫だ。

〇お金を下ろす機械

 初号機は1969年(昭和44年)誕生。

 決まった金額しか出てこなかった。

 キャッシュディスペンダー

 1975年(昭和50年)誕生。

 お金を下ろすだけの機械。

〇鉄道に関する機械

 かつては切符は駅員さんから買って、切符を改札で切ってもらった。

 券売機

 初号機は1926年(大正15年)誕生。

 改札機

 初号機は1967年(昭和42年)誕生。阪急北千里駅。

〇在来線特急「こだま」1958年(昭和33年)誕生

 東京大阪間を6時間半で走る。

 行ってすぐに帰ってくるので「こだま」 なるほど!

〇数年後に誕生するであろう乗り物 ドローンタクシー

 

これも授業で空いた時間に見せるのはいいなと思いました。

さすが池上彰さんの番組です。

  

  

〈546〉

【漫画】伊能忠敬の生涯~55歳から地球一周分を歩いた男~【日本史マンガ動画】
YouTube: 【漫画】伊能忠敬の生涯~55歳から地球一周分を歩いた男~【日本史マンガ動画】


〇伊能忠敬が天文学の師としたのは高橋至時(よしとき)。

 高橋至時は41歳で亡くなった。

 伊能忠敬の墓は、高橋至時と同じ場所上野源空寺にある。

 本人の希望による。

〇授業では「歴史にドキリ」を見せるが、この動画でも勉強になった。

 伊能忠敬は隠居後に天文学を学んだ。

 私は退職後、何を学ぶかだ。

 動画編集を学ぶのもいいなと思い出した。 

   

   

〈547〉フィッシャーズ

絶対に落ちてはいけない難関アスレチックに挑んだら指ぶっ壊れた!!!
YouTube: 絶対に落ちてはいけない難関アスレチックに挑んだら指ぶっ壊れた!!!


〇CROSPO八王子店にやってきたフィッシャーズ。

 ここでもアスレチックに挑戦している。

 施設にとっては、フィッシャーズが挑戦して

 動画にアップしてくれることで、宣伝になるのだろう。

   

「線量計と奥の細道」⑤ 2016年の糸魚川での大火

    

今日は令和3年12月5日。

   

前記事に引き続いて、

「線量計と奥の細道」(ドリアン助川著/集英社文庫)より

引用していきます。

   

  

人生は出会いと別れの連続だ。その後(奥の細道旅行以後)の芭蕉は

伊勢や京都へ足を運び、また江戸に戻るなど、ひとつの地に安住する

ことがない日々を送る。そして元禄七(1694)年、門人のトラブ

ルを仲裁に出かけた大坂で体調を崩し、その人生を終えることになる。

50歳だった。私と同い年で世を去ったのだ。

(356~357p)

    

岩崎弥太郎、五代友厚がともに50歳ほどで亡くなったことを

先日書きました。

松尾芭蕉も50歳だったのです。

長寿の時代に生きる自分は幸運だと思って、

まだまだ頑張って生きたいと思うのです。

まだ60歳代は心身ともにやりたいことができます。

  

  

一方で、こんなこともあった。2016年12月、糸魚川が大火に

飲まれた。一軒の店舗を火元とする火災だったが、強風により延焼

が拡大し、JR糸魚川駅の北側から海浜にいたるまでの市の中心部

が焼失した。人的被害がなかったことは不幸中の幸いだったが、家

屋を失った人々だけではなく、多くのみなさんが厳しい状況に追い

こまれた。宴会や祝いごとなどの自粛ムードが起き、いっさいの商

売が止まってしまったのだ。特に、飲食店や酒屋への影響は大きか

った。大火があったところへ行くべきではない。そんな場所で酒を

飲むのは不謹慎ではないか。そうした意識が新潟県の内外を問わず

生れてしまった。年末年始をまたいでもビールケースひとつ売れな

い。商店主はみな追いつめられた。

そこで、プラムさんと相談して、あることを企てた。燃えてしまっ

た繁華街は仕方ないが、それ以外の店はお客さんを待ちわびている。

不謹慎でもなんでもありません。糸魚川を旅しておいしいものを食

べよう。お酒を飲もう。ネット上でそう呼びかけてツアーを組んだ

のだ。その結果、大型バスをチャーターするだけのお客さんが全国

から集まった。いわば、食べて飲むだけのボランティアである。プ

ラムさんは身を粉にして働き、宿泊先の手配から糸魚川各地の旅ガ

イドまでをすべてやって下さった。そして宴席には、糸魚川が誇る

酒の数々や、「あぐりいといがわ」の珠玉のトマトジュースなどを

大量に提供して下さった。お客さんはみなプラムさんのホスピタリ

ティーに感動し、谷村美術館の仏像に圧倒され、ブラック焼きそば

のとりこになり、一人一人が糸魚川をしっかりと胸に刻んだのだっ

た。プラムさんがいる限り、糸魚川からは光が射し続ける。

(375~376p)

   

2016年の糸魚川の大火はうっすらと覚えています。

でもこのブログでは取り上げていません。

この文章を読んで、将来糸魚川に行くことがあったら、

糸魚川では最近こういうことがあったという歴史として

ちゃんと知って出向きたいなと思いました。

  

   

数えきれない(東日本大震災)の被災者が、デモに訴えるわけでもな

く、テロに走るわけでもなく、ただおのれの手を見ながら立ち上がり、

生活の再建に向けて汗を流している。まさにもの言わぬみなさんの毎

日の努力が、復興基盤の本質なのだ。

だからこそ私は言葉をもって訴えたい。

無言の人々が我慢を重ねている状態に、為政者は寄りかかるべきでは

ない。権力を持った者たちは、訴えようとしない人たちの心の声を把

握するべきだ。

(377p)

   

この文章を後に、筆者は、原子力発電所が本当に危険な場所に

設置されている実態を書いている。そして「あとがき」の最後に

次のように書いています。

   

芭蕉と曾良の旅から300余年。象潟が陸地になったように、日本列

島は方々で形を変えている。世界一の活断層の巣であり、薄皮一枚下

はプレートが複雑にうごめき合っているのがこの列島の正体なのだ。

数えきれないほどの大地震の歴史と、実際に起きた原発事故から、私

たちはなにを学んだのか。危機はすぐ目の前にある。

(378p)

   

ドリアン助川さんの主張は明確です。

もう原子力発電は日本では無理。止めましょう。

被災した人たちを見て、被災した場所の線量計を見て、

そう思ったのでしょう。

  

   

富岡町や大熊町など、かつての強制避難地域への住民の帰還問題も

ある。政府にしてみれば、汚染されていた福島の浜通りに住民たち

が戻ってきた、線量がさがったのです、もう安心ですよ、なんの問

題もありませんよとアピールをする腹づもりなのだろう。

しかし、帰還の目処となる基準値は、チェルノブイリの現在の強制

移住基準値である年間5ミリシーベルトを越える20ミリシーベル

トに設定されている。第一原発が事故を起こすまでは、環境省が指

定した基準値は年間1ミリシーベルトだった。それが突然、20ミ

リシーベルトまで引き上げられたのだ。多くの被災者は、暴投でも

ストライクとなりそうなこの無茶なカラクリを知っている。政府が

理想とする帰還劇など進むはずがないのだ。20ミリシーベルト基

準ならおそらく問題は起きませんと御用学者が希望的観測を語った

ところで、将来に於ける保障はなにもないのだから。

(385~386p)

   

実際に富岡町や大熊町に行ってみて、

帰還は進んでいないことを実感しました。

まだ問題が山積みのところに、

私はのこのこ行ったのだなと思いました。

  

  

以上で「線量計と奥の細道」からの引用を終えます。

  

  

「線量計と奥の細道」④ だれも手を抜いて生きているわけではない

     

今日は令和3年12月5日。

   

前々日の投稿の続きで、

「線量計と奥の細道」(ドリアン助川著/集英社文庫)より

引用していきます。

    

プラムさん曰く、「あぐりいとがわ」が挑む新しい農業には、ふた

つのキーワードがあるのだという。ひとつは限界集落。もうひとつ

は耕作放棄地だ。

糸魚川に限った話ではなく、今、過疎と高齢化は日本中の山里が直

面している問題だ。農地はあってもそこを耕す人はいなくなり、か

つての豊穣の里は茫々たる荒れ地になりつつある。プラムさんたち

はここにもう一度鍬を入れ、同時に人も集める。定年退職などで人

生の節目を迎えた人々と肩を組むのだ。ほんとうは価値がある土地。

ほんとうは労働欲も能力も有り余っているみなさん。このふたつが

結びつくことにより、終わってしまったかのように見えていた地域

と人が再び実りの季節を迎えるのだ。

(284~285p)

   

退職を4カ月に控えて、それからの生き方を考えるときです。

ハーフで働くことを希望していますが、

残り半分の時間をどう活かすかが重要になってきます。

体が動くのは65歳までと聞きます。

今の自分の関心事です。

どこかで自分の能力が活きる場所がないだろうか。

  

   

車は国道からすでに離れており、あるいは運河の橋を一つ渡る度に、

昭和の頃からさほど風景が変わっていないであろう集落が次々と現

れる。自転車に乗ったおじいさん。路地から現れる子供たち。なに

やら話し込んでいる奥様たち。一人黙々と歩く男子高校生。一瞬す

れ違うだけでおそらく二度と会うことはない人たちの生活がここに

ある。そこにある。どこにでもある。だれも手を抜いて生きている

わけではなく、それぞれがそれぞれの町で人生と向かい合っている

のだ。そんなことを思いながら富山の海沿いの暮らしというものを

眺めていたら、新湊の富山新港に出た。

(295p)

   

自分も知らない街に出かけた時には、太字で書いたようなことを

思います。

日々の生活に手を抜かずに真面目に取り組んでいる人たちがいるのです。

自分もこの場所で手を抜かず頑張っていきたい。

   

   

やがて垂井のいう町に入った。小京都と呼んでもいいような古い街

並が続く。訪れてみなければわからないものだなとつくづく思う。

新幹線の車窓からなら瞬時に過ぎてしまう風景のなかに、こんなに

も趣がある町があったのだ。私が歴史に疎いだけなのかもしれない

が、駅前の案内図を見て、ここに美濃の国府があったことを知る。

日本史の教科書をあらためて読み直し、このあたりをもう一度来て

みたい場所だ。

(353~354p)

   

こんな体験をする旅をしてみたいですね。

それには自転車の旅ですね。

  

昨日まで自転車通勤が4日連続。

その日まで、トレーニングは進んでいます。

2021年12月 4日 (土)

日めくりより/ポップコーンが作れるトウモロコシの種類

     

今日は令和3年12月4日。

       

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

   

Epson046

ポップコーンを作れるトウモロコシの種類とは?

   

そうなんだ。

映画「トンマッコルにようこそ」の名シーンが思い出されます。

時は朝鮮戦争真っただ中。

トンマッコル村で遭遇した韓国軍と人民軍(北朝鮮)。

互いに武器を持ってにらみ合いをしますが、

徹夜でのにらみ合いで、睡魔におそわれた人民軍の若手が、

安全装置を外した手りゅう弾を落としてしまう。

爆発か!と思ったら、幸いにも爆発はしませんでした。

何だ、不発弾かと思って、韓国軍兵士が、

その手りゅう弾を放り投げました。

そこは、村人の食料が貯蔵してあった倉庫でした。

不発弾かと思われた手りゅう弾は、そこで大爆破。

倉庫にはトウモロコシがたくさんあったようで、

爆発で吹き飛ばされ、宙に舞いました。

その時、トウモロコシがポップコーンとなって、

人々の上に雪のように舞い降りてきたのです。

にらみ合いの緊張をほぐす、少々滑稽な面もあったシーンでした。

   

今回の日めくりを読んで、

この名シーンはあり得ないことなのかと思いましたが、

でもまあいいか、映画は映画、あのシーンはあれでいいと

思いました。

   

  

これも体験がある人なら知っていること。

ポップコーンを作った体験のある人ならね。

退職後にやって確かめたいですね。

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