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2021年12月11日 (土)

「御巣鷹山と生きる」③ 美谷島さんもきっと揺れている

     

今日は令和3年12月11日。

        

前記事に引き続き、

「御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年」

(美谷島邦子著/新潮社)より引用します。

   

  

2008年10月には、日航安全啓発センターで、初めて日航の社

員に対して話をした。新人研修で客室乗務員45人にむけての講話

だった。社員に話をしようと思ったのは、墜落時刻で止まった時計

や壊れたメガネなどの展示された遺品を、ただ見るだけでなく、そ

こにある物語を知ってほしいと思ったからだ。健が飛行機に乗った

日から遺体が発見される日までのこと、そして、健の遺品のことを

中心に話した。

遺族が話すことで、安全啓発センターにおかれた事故の残骸や遺品

や遺書が初めて生きたものになると思った。

(173p)

   

美谷島さんのスタンスは、事故の原因は日航やボーイング社にあり、

事故再発がないように日航と接しているように思えます。

しかし、青山透子さんの説で行くと、日航も被害者であり、

この事件に巻き込まれた感じです。

日航と深く関わってきた美谷島さんは、長年考えて行動してきたことと、

そうではないという説の間で、揺れているのだと推察します。

次のような文章もあります。

   

事故の原因究明と日航の関係を話すと、私は、この事故の大きな原

因は、日航がボーイング社の修理を妄信したことではないかと思っ

ている。日航の内部には、「この事故はボーイングのせいで起きた」

と考えている社員がいることをかなり後で知ったが、事故後も「メ

ーカーを妄信しない」という反省が活かされているのか疑問だ。会

社のトップは、内部の犯人探しや、ボーイングへ責任を押し付ける

ことで、この事故を終らせたいと思っていなかったか。会社として、

メーカーを妄信せずに、運航輸送業者としての責任を真摯に謙虚に

受け止めていたのだろうか。

(179p)

  

事故後25年目に発刊された本では、

美谷島さんはこのように考えていました。

青山透子さんや小田周二さんの説が真相ならば、

これらの考え方は的外れになってしまいます。

それは受け入れられないことなのではないか。

  

  

25年間で感じたことは、遺族の気持ちは、環境と心境の変化によ

って揺れるということだ。最初は実名、何年か後に匿名を希望する

遺族がいる。逆もある。また、家族の中でも考え方が違う。だから

こそ、いつも遺族の了解が得られるように努力してほしい。

(196p)

  

青山透子さんや小田修二さんの説によって、

遺族の気持ちは大きく揺れていると思います。

  

  

特に、8・12連絡会の立ち上げの時から付き合いのある記者たち

には、特別の思いがある。8月12日生まれだという、当時新人だ

ったTBSテレビの松原耕二記者は、健の部分遺体が見つかった日、

カメラを回さないで、12月の寒い体育館で大粒の涙を流していた。

(197p)

   

現在「サンデーモーニング」に出演している松原耕二さんは、

1960年8月12日生まれでした。

TBSは定年退職しています。

松原さんにはこのような体験があったのですね。

   

  

最後に3つの文章を引用します。

   

事故後10年目ぐらいから、灯籠流しなどの8・12連絡会行事に、

日航の登山支援班の人を中心とした日航の協力が始まった。

川に流れていく燈籠は、人々のやさしさ、犠牲者の命の尊さを後世に

繋いでくれる。520の御霊が、導いてくれるのだろうか。

日航の女性社員が川に入って、灯籠が流れやすいように道筋を作り、

川下では、日航の男性社員が、真っ暗な川面から灯籠を回収する。こ

れらの行事を通して安全を求める気持ちは、被害者も加害者も同じだ。

(147~148p)

   

大事故を起こした会社と肉親を亡くした遺族との心の出会いが、御巣

鷹の山道で、日航の手作りの山小屋で始まっていた。

私は、山小屋に泊まった日のことを今でも思い出す。日航が、ビルの

中で考えるのとはまったく違う遺族支援があった。(中略)

山では、日航の登山支援班の社員と遺族が声を交わした。山が、両者

の心を結ぶ唯一の場所になり、事故を起こした会社と遺族との関係は、

劇的に近づくことになった。この山にいる日航の男たちは、「山を守

ろう、亡くなった人たちの場所を守ろう、賠償とは関係なく」と言っ

ているような気がした。

(150~151p)  

    

毎年、11月中旬から翌年の4月末まで、御巣鷹の尾根の登山道は、

閉じられる。この25年間で、私の御巣鷹山への登山回数は、146

回となった。20年前、健の墓標の脇に植えた30センチのもみの木

は、今、5メートルを超えた。

2009年11月14日、そのもみの木にクリスマスの飾りつけをし

て、夫と雨の中、山を下る。途中、日航の登山支援班が、新人の社員

を連れて「鎮魂の鈴」を片付け、雪に覆われて傷まないように墓標の

整備をしている。

会社は存続の危機にあり、毎日毎日、再建に関する報道がなされてい

る中だった。しかし、社員は黙々とこの御霊の山にきて作業していた。

毎年繰り返される御巣鷹の閉山風景。

私は、「ありがとう」とつぶやく。

(158p)

       

これらの文章を読むと、青山透子さんに「日航の広告塔」と

言われてしまう美谷島さんの原点があるように思えます。

美谷島さんもきっと揺れていると思います。

  

以上で「御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年」からの

引用を終えます。

   

 

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