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2021年8月 3日 (火)

「維新前夜」③ 名倉予何人が魅力的な人物でした

    

今日は令和3年8月3日。

   

前記事に引き続き、

「維新前夜 スフィンクスと34人のサムライ」

(鈴木明著/小学館)

より引用していきます。

   

 

この世に「火輪車」というものがあり、アメリカに行った使節団一行

も、また二年前竹内使節団一行も、この「火輪車」に乗っている話は

きいていたのだが、復一は「鉄道」という言葉にだまされて頭から、

そこには「鉄の道」が続いていると思い込んでいたのである。

復一は、初めて「鉄道」というのは、二本の敷かれたレールであるこ

とを知って、おもわず、

「あっ、これが鉄道か」

と声を出した。

知ってしまえば何のことはないが、初めて見る復一には、自分の知識

不足、愚かさに対して、頭をなぐられたような気持である。

(203~204p)

   

そう思うだろうなと思います。

当時の人たちがどう思ったかわかるいいシーンです。

私も、先入観を覆させられ、頭をなぐられるような体験から

離れているなあと思いました。

  

  

カイロに着いてから、名倉はことあるごとに怒っていた。

「エジプト人は不潔だ」

「迷信だけで、信念がない」

「食い物が粗野だ」

そういいながら、名倉は一日として宿舎にいたことはなかった。43

歳としては、信じられないほどの行動力だった。唯一の好物になった

らしいオレンジを食べながら、土地の習慣、三層ホテルの様子、食べ

もの、家屋、地形、軍隊の教練、水利、葬式、結婚式、水煙草、それ

にエジプトの主権国トルコ人の横暴・・・およそ眼につくものは、す

べて書き留めていた。

(211~212p)

中国と、平等な条約を結び、お互いに手を携え、西欧の勢力をアジア

からしめ出すーーー。

それが、名倉の火のように燃えた信念だった。

(337p)

  

名倉予何人(あなと)はとても魅力的な人物として描かれていました。

年輩なのに、好奇心があって行動力がありました。

そして信念がありました。

60歳になったけど、名倉予何人の生き方は参考になりました。

  

  

明治新政府が、旧幕臣の技術力に眼をつけ、新政府への登用をはじめ

たのは、明治2年の半ば頃からであった。昨日まで「薩長・徳川」と

いう形で戦ってきた、まさに「次の日から」といった変わり方である。

三宅の親代わりともいうべき田辺太一の許へも、何度か薩長の使者が

来て「是非、新政府への仕官を」と説得した。田辺太一が「外務省」

の役人になったのは、明治3年1月である。

(341p)

   

「万波を翔る」のラストは、田辺太一が新政府に仕官することを

決断した時でした。

江戸幕府は滅びましたが、幕臣には優秀な人がたくさんいて、

田辺太一のように、新政府にも貢献した人がいたことが、

本を読んでじわじわわかってきました。

  

  

幼い頃、黒船を見て驚いた少年は、明治、大正、昭和と生き続け、晩

年にはラジオの熱心なファンになった。エレキテルの発見から、ラジ

オの普及期になるまで、三宅は生き続けたのである。

昭和13年3月16日、三宅秀(ひいず)は眠るように死んだ。91

歳だった。

(354p)

  

パリに行った時には17歳だった三宅復一(幼名)。

その後、とっても立派になって驚いてしまいました。

※参考Wikipedia 三宅秀

私も昭和、平成、令和の3つの元号の時代を生きて、

なにか面白いものに夢中になって、

90歳くらいまで生きて、眠るように死にたいですね。

  

  

以上で引用終了。

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