「スクリーンが待っている」② 訃報に接してから読んだ本から始まった
今日は令和3年5月8日。
前記事に引き続き、
「スクリーンが待っている」(西川美和著/小学館)より
引用します。
『クレイマー、クレイマー」(’79)や『評決』(’82)や『家族
ゲーム』(’83)などと出会っていなければ私は映画に携わること
もなかっただろうが、それらも皆既存の小説を元にして作られた映
画だ。「これは」と思う作品に出会えたら是非とも、という気持ち
は元々あったが、それとは裏腹に、シナリオを自分の手で書けば書
くほど、原作のあるものを映画に落とし込むことの難解さが明らか
に見えてきて、じりじり後ずさっていったのも事実である。漫画で
あれ、小説であれ、それ自体の質が高いほど、密度が濃いほど映画
は分が悪い。紙の上の世界と違い、どこまでも時間と金と、視覚、
聴覚に縛られた限界の多い表現だからだ。予算が足りず、スケール
は小さくなり、変なCG、無理のあるキャスト、緻密に書き込まれ
ていたはずの心理描写や過去の遍歴は省かれて、2時間に無理やり
押し込められてあらすじのみ残る。そんな映画をあなたも観たこと
がありませんか?私は、ある。
今よりもう少し若いころは、「この原作で、長編映画を撮りません
か」と人から声がかかることもあったが、私は目もくれなかった。
どの小説も良く書かれていて、とても勝ち目があるとは思えなかっ
たからだ。ベストセラー作品などともなれば、作者はもとより、そ
の世界を深く愛するファンもいる。「あれもない!これも違う!」
と連中を怒らせると思うと憂鬱だ。
(11~12p)
「映画は分が悪い」という表現が納得しました。
原作を知っていると、物足りない映画はいくつも出合ってきました。
それでも今回、著者の西川美和さんは、原作をベースに
脚本を書き、映画化しました。
その原作との出合いを次のように書いています。
そんな季節と季節の狭間、一人の作家の訃報があった。作家の死
は、しばしば文学になる。付き合いのあった別の作家がその人の
死について言葉を綴るからである。新進作家のころから酒を酌み
交わす仲間だったという高齢の小説家が、自分よりも一回り逝っ
た旧友の死を枯れた言葉で悼んだものが新聞に載っていた。中で
「100冊を超える著作の中で、彼の文学の真骨頂とぼくが思う
本はーーー」と作家が掲げた作品を、私は題名も知らなかった。
調べれば昭和の終わりごろに出版された小説で、すでに紙の本は
絶版となっていた。
(13~14p)
著者の西川さんは、この後小説を手に入れて読みます。
佐木隆三さんの作品「身分帳」です。
私も最近、大石又七さんの訃報を知ったのを機会に、
大石さんの本を読みました。
訃報が読むきっかけになると思います。
「身分帳」を読んだ時の西川さんの感想です。
読み終えるのを待てず、「こんな面白いものが世の中に埋もれてい
るのは、災難だ」。そう思った。わくわくして、誰かに喋りたくて
仕方がない。教えたくて仕方がない。けれども作者はすでに鬼籍に
入り、紙の本は絶版。この時代、新聞のささやかな寄稿文一つで、
ふたたび世間に火がつくとも思えない。題材は歴史に刻まれた大事
件でもないから、誰かが後から掘り起こすきっかけすらないだろう。
「でも、本当に忘れていくつもりですか?知らないよ。知らないよ!!」
と、布団の中で私一人があたふたしている。けれど、もし映画にし
たら、もう一度ここに書かれたことが人に知られる機会になるかも
しれない。だったら、私が、やりましょう!
(15p)
この気持ち、共感できます。
西川さんには、映画という表現手段がありました。
私はこのブログに書き留めたり、
時には授業が表現手段になりました。
でも映画という表現手段は魅力的だと思います。
目に留まりやすく、未来にも残る可能性があり、
「身分帳」に再び陽の光を当てる目的が叶いそうです。
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