「この国の不寛容の果てに」①「ありのままの自分」を好きになれずに苦しんでいる
今日は令和3年3月21日。
「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」
(雨宮処凜編著/大月書店)
この本で、私は初挑戦をしています。
うっかり、電子書籍(Kindle版)の注文ボタンをクリックしてしまい、
電子書籍でこの本を読んでいます。
今までマンガは電子書籍で読みましたが、
文字ばかりの本を電子書籍で読むのは初めてです。
これが存外に読みやすい。
タブレットで読んでいますが、文字が大きく、
老眼鏡をかける必要がありません。
ページは簡単にめくれます。快適です。
ページ数は表示されませんが、何%読んだか表示されます。
欠点は、引用したい文章に付箋が貼れないこと。
もしかしたらそのような機能があるのかもしれませんが、
現時点でわかりません。
会場前方には車いすに乗った人など、多くの障害者が集まっていた。
そうして客席に座る多くが、健常者と思われる人々だった。そんな
中、知的障害があるという40代の女性がマイクを握り、言った。
「みなさんの中に、生まれ変わったら知的障害になってもいいとい
う人はいますか?」
女性がそう問いかけると、満員の会場はシンと静まり返った。
「それとも、いまと同じがいいですか?」
客席を見渡して、ひと呼吸おくと彼女は言った。
「私は、生まれ変わっても障害のある自分がいい」
そして、近くに座る車いすの男性に聞いた。
「障害のある自分が好き?」
男性は、はっきりと「好き」と言った。
生まれ変わっても、今の自分がいい。
彼女が口にした言葉を聞いて、曇っていた視界がパッと開けたよう
な思いがした。恥ずかしながら、「生まれ変わったら」という問い
の答は、「障害のない自分になりたい」だと思い込んでいた。そん
な自分の発想の貧しさに、顔がほてった。
だけど、障害があろうとなかろうと、今の世の中には「このままの
自分」でいることが「罪」とされるような空気が満ちている。常に
上をめざすべきだとか、今の自分に満足しているようじゃ向上心が
足りないとか。そうしてみんな、「ありのままの自分」を好きにな
れずに苦しんでいる。
それなのに、どうだろう。
マイクを持つ女性は、「いまのままの自分が好き」と、嬉しそうに
話している。グループホームで豆腐を作り、お客さんを接客するな
かで「遅い」と文句を言われて傷ついたりしながらも、そんな自分
を丸ごと受け入れている。
そんな彼女を見ながら、思った。
植松被告は、きっと自分のことが好きではなかったんだろうな、と。
「そのままでいい」どころか、「いまのままじゃダメだ」って言わ
れ続けてきたのかもしれないな、と。
(12~13%)
今の自分が好きかと問われれば、どうだろう?
確かにまだ十分ではない自分に満足できず、
もっといい自分があるはずと思っています。
自己嫌悪することもあります。
「ありのままの自分」を受け入れていません。
これは「今の自分が好きか」と問われれば、
「好きではない」となってしまいます。
好きになったなら、心は変に騒がしくならないだろうな。
神戸金史さんと雨宮処凜さんとの対談
神戸:優生思想的な発想というのは誰にでもあると思います。子ど
もが生まれるなら、できれば見た目がいいほうがいいとか、スポー
ツができてほしい、学歴はないほうがいいとか、そういう考えと地
続きに、障害もないほうがいいという発想もあるのでしょう。それ
は否定しきれないものだと思います。けれど基準を誰かに強いられ
ることはあってはならない。
健常者か障害者かを問わず、実際に子育てをしていくなかで、でき
ることとできないことがあり、願った通りに育ってくれないことは
よくあります。人間だから当然のことです。そのときに「それでも
いいじゃないか、この子はこの子だ」と思えるかどうか。言い換え
れば自己肯定感ですね。自己肯定感を持つことが、内なる優生思想
の歯止めになる。これは障害を持つ子どもを授かって20年、一緒
に育ってきたから思えることです。
「それでいいじゃないか」と思える人は、他者に対しても寛容にな
れるはずです。植松被告はその自己肯定感がとても低かった。役に
立つ人間になりたいとずっと思いながら、なれなかった。それで、
あの思いつきを手にしたときに、自分が社会に役に立てると確信し
てしまったのだと思います。
(26%)
「それでいいじゃないか」と思える人は、
他者に対しても寛容という部分が印象に残りました。
自分に対しても、他者に対しても「それでいいじゃないか」と
思えたら、いい世の中になるでしょうね。
でも、教師という職業は、生徒を「それでいいじゃないか」と
思えない職業だなと思います。
気をつけないと。
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