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2020年10月25日 (日)

「思考の整理学」③ 時の試練

  

今日は令和2年10月25日。

  

前記事に引き続き、

「思考の整理学(ワイド版)」(外山滋比古著/筑摩書房)より

引用します。

  

「時の試練」という章に書かれた内容は特に興味深かったです。

  

いま、島田清次郎という小説家のことを知っているのは、近代文学

を専門にしている研究者くらいであろう。その『地上』(大正8年)

という作品が天下の話題になったのを知る人はもうほとんどなくな

ろうとしている。

島田清次郎は大正の文学青年から見て、まさに天才であった。それ

を疑うものはすくなかった。それがどうだろう。僅か60年にして、

ほぼ、完全に忘れられてしまった。当時としては、むしろ、夏目漱

石の文学について疑問をいだくものが多かった。批判もすくなくな

かった。それがいまでは国民文学として、近代文学において比肩(

ひけん)しうるものなしといわれるものになっている。

大正の中葉において、現在のことを予測し得たものはほとんどなか

ったと言ってよい。流行というのはそれくらい人の目をくるわすも

のである。

  

その時代にどんなに評判がよくても、後世まで残るかどうかは、

「時の試練」をくぐり抜けるかどうかというわけです。

  

  

”時の試練”とは、時間のもつ風化作用をくぐってくるということで

ある。風化作用は言いかえると、忘却にほかならない。古典は読者

の忘却の層をくぐり抜けたときに生れる。作者自らが古典を創り出

すことはできない。

忘却の濾過槽をくぐっているうちに、どこかへ消えてなくなってし

まうものがおびただしい。ほとんどがそういう運命にある。きわめ

て少数のものだけが、試練に耐えて、古典として再生する。持続的

な価値を持つものには、この忘却のふるいはどうしても避けて通る

ことのできない関所である。

この関所は、5年や10年という新しいものには作用しない。30

年、50年すると、はじめてその威力を発揮する。放っておいても

50年たってみれば、木は浮び、石は沈むようになっている。

(125p)

  

人間って、やっぱり忘れる生き物だと最近2つのことで思いました。

一つは長崎について。

原子爆弾で被爆したというと広島と長崎ですが、

私の中では長崎が少し忘れがちだということに最近気づきました。

そしてそれは私だけでなく、世間でも同じ傾向があると知りました。

まずは長崎のことを忘れ、そして広島のことも

忘れてしまうのでしょうか。

忘れてはいけないと思って、長崎のことを調べて、

先日記事にしました。

ここでも道草 長崎原子爆弾/炸裂地上空500mから俯瞰(2020年9月29日投稿)

   

もう一つは、「三浦和義」氏について。

先日「ロス疑惑」「三浦和義」という事件名、氏名に触れて、

どうだったけ?と思い出せませんでした。

Wikipedia

1981年に始まる三浦和義氏に関係する出来事を

「ロス疑惑」と言いました。

当時は連日マスコミで取り上げられました。

 

しかし、「ロス疑惑」の内容を思い出せず、

三浦和義氏が自殺したことにビックリしました。

当時はニュースで浴びるように触れたはずですが、

すっかり忘れていました。

  

  

この2つのことから

そんなことは忘れるはずがないようなことも、

人間は忘れるんだと思いました。

「時の試練」はなかなか厳しい関所です。

  

私の中で、30年、50年の時の試練を経て残っているものは

何があるだろうかと考えちゃいました。

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