「ひきこもり支援 石川清」⑤ 取材者から支援者になった
今日は令和2年3月10日。
前記事の続きで、1月14日放映の
「プロフェッショナル 仕事の流儀 ひきこもり支援 石川清」
より聞き書きをしたものを書き留めます。
石川さんは小さい時から、みんなで一緒に何かをすることが
苦手だったそうです。
学校ではひどいいじめ受けて、人間不信となります。
石川さんは大学を休学して、逃げるように国外へ。
何とフィリピンのマニラ、貧困のスラム街に住みつきます。
ビックリです。
その行動力に驚きました。
ここで石川さんは転機となる体験をします。
石川さんは高熱を出して寝込んでしまいます。
そこに周囲の人たちが貴重な食料を持って、
次々に見舞いに来てくれました。
最初は、自分のところにあるものを盗みに来たのかと
疑ったりもしましたが、
彼らの行為は見返りを求めてのものではなく、
どこまでもやさしかったそうです。
「人はそれほどひどいものではないかもしれない」
石川さんの心にそんな思いが宿ります。
人をもっと掘り下げたいと、大学卒業後テレビ局に入社して
記者になります。
しかし、組織になじめない石川さんは3年で退職。
フリーで活動するようになります。
そして34歳の時・・・・・ 以下は聞き書きしたものです。
ナレーター:家にひきこもる人たちの存在を知る。
何気なく取材を始めたが、膝をつき合わせて話を聞くうちに
慄然(りつぜん)とした。
石川:その苦しみたるや、僕が思ったのは
「フィリピンのスラムの人たちよりも全然苦しんでいるぞ」
て思いました。
物質的には極めて豊かなこの国で、
しかもそれだけの苦しみを感じている人たちが
しかも周りの人に気づかれずに暮らしているわけですよね。
ナレーター:周囲から助けもなく絶望する人たち。
自分に重なるものがあった。
すい寄せられるようにひきこもる人に次々に会った。
そんな時、一人のひきこもりの男性と出会った。
医療機関や支援団体からも見放され、死にたいと訴えていた。
見て見ぬふりはできなかった。
石川:「どうせ死ぬんだったら、死んでもいいから、その前に
東南アジアの奥地に行こうか」
「楽しいよ、おもしろいよ」
「そういうことを見てから死んだ方がいいじゃないの?」
みたいな話とかして・・。
ナレーター:旅に出て3週間ほどたった頃、石川さんの何気ない言葉に
男性が反応し、突然笑い始めた。
石川:何かが楽しくなっちゃって、
「笑いの止め方がわかりません」とか言って
寝っ転がって笑ってみたいなことをやって、
それで我に返った瞬間、
「生まれて初めて笑いました」
「初めて笑ったので、どうやって笑っていいかも分からなければ、
笑いの止め方のわかりませんでした」
みたいなそんなこと言っていましたね。
ナレーター:その日を境に男性はみるみる変わっていった。
自分と関わることで、人が死ぬのを止めて、
生きる希望を見出してくれた。
自分自身も救われた思いがした。
気がつけば、取材者から支援者になっていた。
専門知識はなく、ただ向き合うのみ。
「俺で商売するんじゃねえ!」「偽善者野郎!」
心ない言葉を幾度となく浴びせられた。
でも彼らを憎む気にはなれなかった。
石川:僕自身もまだまだ元気になりたいと言うか、
僕自身も決して人に施しを与えるとか
そういう立場では全然ないですからね、まだね。
やっぱり一緒に元気になりたいっていう気持ちはすごくありますね。
突き詰めて言うと、自分も元気になって、できることをやって、
ひきこもりの子が同時に元気になって、
これを両立できるから、この瞬間が最高ですよね。
話しているものを聞き書きしているため、
わかりにくいところもあると思いますが、
番組を見た時にジーンときたシーンです。
自分がかかわったことで、相手がよい方向に進みだすことは、
教師としてはとてもいいことです。
「癒やす」というのがいいです。
究極、人は癒されたいのだと思います。
また教壇に立つことができます。
教壇に立つ決心をしました。
できることをやって、
「人を癒やし、人に癒やされる」を体験したい。
石川清さんの風貌は、向山洋一先生を思い出します。
話し方も似ているかな。
石川さん、亡くなられました。
お忙しいのもあったと思いますが、支援することによってのストレスも相当あったと思います。合掌
投稿: | 2022年6月20日 (月) 21:25
追伸
ご病気でです。
投稿: | 2022年6月20日 (月) 21:26
お知らせくださりありがとうございます。
素晴らしいことをしている人なのに、
残念です。
石川さんのやったことは、
ちゃんと覚えておいて、
自分ができることがあったら
やっていきたいです。
投稿: いっぱい道草 | 2022年6月20日 (月) 23:31