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2019年12月10日 (火)

小説「出口のない海」③ボレロを聴きたくなる小説です

  

今日は令和元年12月10日。

  

前投稿に引き続いて「出口のない海」 (横山秀夫著/講談社)

から引用します。

  

並木は首を傾げた。マスターが赤いベストを着ていなかったか

らだ。

(マスター)「何だい?」

不思議な気がした。2年半もボレロに通いつめていて初めて目

にする(マスターの)ワイシャツ姿・・・。

並木は聞いてみたくなった。

「ねえマスター、前に、目立つから赤いベストを着てるんだっ

て言いましたよね?」

「そっ、目立たないと迷子になっちゃうからね」

「迷子・・・・?」

「僕は広島生まれでね」

ポットを傾けながら、マスターは意外な話を始めた。

「5歳の時、日清戦争に出征する父を宇品港まで見送りに行っ

たんだ。父の好物のおはぎをたくさん抱えてね」

マスターはヒロ坊と呼ばれ、父にすごく可愛がられていたという。

 

その日、宇品港は出征する兵隊と見送りの家族でごったがえし

ていた。母に手を引かれてやってきたヒロ坊は、はしゃいでい

るうちに迷子になってしまった。父と母は出会えたが、ヒロ坊

を探し回り、1時間の面会時間は瞬く間に過ぎてしまった。父

は好物のおはぎに手もつけず、母と話らしい話もしないまま、

引き裂かれるようにボートで輸送船へ向かった。ヒロ坊を頼む、

ヒロ坊をよろしくな。そればかりを繰り返し母に言いながら。

 

輸送船が出航した後、ヒロ坊を見つけた母は悔し涙を浮かべて

言った。目立つ服を着せとけばよかった。もっと目立つ服をーー。

「僕にはなんのことかわからなくてね、父が食べなかったおは

ぎを腹いっぱい食べてご機嫌だった」

二人は黙した。小畑は洟をすすっていた。

並木はマスターを見つめた。

「お父さんとは・・・?」

「それっきりだったね。1年ぐらいして戦死の報せがきたよ」

体の芯を貫くものがあった。

昨日まで隣にいた人が明日にはいなくなる。それが戦争という

ものなのだろう。

マスターは、何事もなかったように、店の掃除を始めていた。

下手くそな舞姫のスケッチを収めた正方形の額を、丁寧に布巾

で拭いている。息を吹きつけたガラスに優しい顔を映している。

マスターは胸の中の思いを言わなかった。言いそうでやはり言

わなかった。

だが、聞こえた。

戦争なんて勇ましくも男らしくもない。ただ、悲しいだけだー

ーー。

(89~91p)

 

マスターの赤いベストの逸話は長くても引用したかったです。

「まさか、あれが最後の対面だった」という別れが、戦争中には

たくさんあったのだと思います。

死があっけなくやってきてしまうのです。

  

  

マスターは額(がく)の裏側の留め金をはずし、慎重な手で中か

らスケッチを取り出した。いや・・・。

それはただのスケッチ画ではなかった。やや厚みのあるレコード

のジャケットだった。マスターの手がくるりと裏を返す。

「ボレロ・・・」

美奈子が呟いた。

ラヴェルのボレロ。並木にもすぐにそうだとわかった。裏だと思

った面が表だった。舞姫のスケッチは、ボレロのレコードのジャ

ケットの、何も印刷のない真っ白い裏の面に描かれていたのだ。

並木は呆然とした。空転する頭の中で、しかし、霧が晴れるよう

に喫茶ボレロで一番の謎が解けていく。

「特別な時にかけるんだ」

そう言って、マスターは蓄音機の埃を払い、ネジを巻いた。

レコードが回り出した。

(111p)

 

「ボレロ」という喫茶店なのに、「ボレロ」が流れたことがなか

った喫茶店。出征する並木と見送る美奈子のために、特別に「ボ

レロ」が流れました。

  

並木がずっと聴きたいと思っていたボレロだ。美奈子がずっと聴

かせたいと思っていたボレロでもあった。

(112p) 

 

みんな娑婆っけたっぷりに「ジャズが聴きてえなあ」などと口に

する。並木はボレロだ。ああ、ボレロを聴きたいなあ、と思う。

美奈子の手紙を読み、美奈子に手紙を書く。その時だけ、胸にボ

レロが流れる。いっとき、軍隊のことも戦局のことも頭から消え

てなくなる。

(119p)

「頭の中」に流れるのではなくて「胸」に流れるんだ。

彼女の手紙を読んだり、彼女への手紙を書く時だから、

やっぱり「胸」なのでしょう。

  

この小説の中で、ボレロは時々出てきます。

死ぬ直前に並木がきいたボレロは、女教師が特攻兵の並木のため

に、オルガンで一生懸命に引いたボレロでした。ボレロが聴きた

くなる小説です。

 

 

並木が「回天」を初めて見た時のこと。

  

黒い物体が目に入った。その瞬間、ふと眩暈がして視界が暗く

なった。並木が目を瞑(つぶ)った。小さくかぶりを振り、そ

して、ゆっくりと目を開いた。

ーーーこれか・・・・。

知らずに拳を握り締めていた。

回天が眼前にあった。丸みのある弾頭が鈍く光っている。長い

胴体。前の方が太く、後ろ半分はやや細い。大きな魚に小さな

魚が後ろから突っ込んだような格好だ。二連のスクリューが尾

鰭(おびれ)のように目に映る。

魚雷だ。形そのものは魚雷に違いない。だが、それは巨大な棺

桶に見えた。鉄の棺桶ーーー。

(135p)

 

このページで、初めて回天が姿を現します。

そして何度も登場人物をのみ込んでいきます。

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