「医者、用水路を拓く」③ 次男を失っていた中村哲さん
今日は令和元年12月24日。
前記事に引き続き、
「医者、用水路を拓く アフガンの大地から
世界の虚構に挑む」(中村哲著/石風社)より引用します。
日本に帰国した折に報ぜられた「アフガン情勢」は、目前にし
た事実と余りに異なるものであった。最も誤解を与えた映像は、
「タリバーンの圧政から解放され、北部同盟軍の進駐を歓呼し
て迎える市民たち。ブルカを脱ぐ女性たちの姿」である。これ
がテレビで繰り返し流された。この映像を見た福岡市の米国領
事は、「アフガニスタンの解放に感銘を覚える」と語ったが、
これは錯覚だった。わずか5年前の1996年9月、タリバン
軍がカーブルを陥(お)として進駐した時も、同じカーブル市
民が歓呼して迎えたのである。ジャララバードでも同様で、私
はその場にいた。殆どの市民たちにとっては、「争いません」
という意思表示以上のものではなかった。
(51~52p)
前記事にも書きましたが、
タリバーンのイメージは「悪」でした。
この本を読んで、少しは中立の立場で
見ることができるようになりました。
人は思いもせぬ事情に遭遇し、流されてゆく。摂理は推し量り
がたい。時代は、私たち個々の運命と交差しながら、模様を織
り成して流れてゆく。
自分も例外ではなかった。一連の激しい変化の渦中に、その後
の身の回りを決定する出来事があった。2002年12月、脳
腫瘍で死期が近いことを宣告されていた次男の容態が、急速に
悪化し、12月4日、急遽帰国した。(中略)
次男はまだ精神状態が正常だった。前年の2001年6月に脳
腫瘍(悪性神経膠腫/こうしゅ)と診断されていた。(これは小
児には稀な病気だが、2年後の生存率はゼロに近く、死の宣告
に近かった。)折悪しく、旱魃対策、アフガン空爆、食糧配給
など自分の人生でも多忙な時期に当たった。現地と吾が子と、
まるで爆薬を2つ抱えているようで、精神的な重圧になってい
たのである。
(74p)
12月27日夕刻。容態が急変。昏睡状態に陥り、深夜に呼吸
が停止した。2分後に心臓が停止、瞳孔が開いて神経反射が完
全に消失、往診で診てもらっていた豊増医師の立会いで「脳ヘ
ルニアによる延髄圧迫・脳死」と判断された。享年10歳。親
に似ず優しい聡明な子であった。
(76p)
中村哲さんはアフガニスタンで頑張っている時に、
次男の死という体験もされていたのです。
それを乗り越えての活動だったんですね。
壮絶です。
タリバーン政権時代にほぼ絶滅に追いやられたアヘン栽培が盛
大に復活したのは、このため(砂漠化)である。ケシは乾燥に
強い上、小麦の約100倍の現金収入を得ることができる。水
欠乏に窮した農民たちは、こぞってケシの作付けを行ったから、
2003年末までに、アフガニスタン一国で世界の麻薬生産の
七割を占めるに至った(2006年には93パーセントに上昇、
2007年には前年比34パーセント増え、世界の麻薬を独占
した。アヘンの主な消費地はヨーロッパとアメリカである)。
(81p)
それぞれに事情がちゃんとあります。
水不足で困窮したアフガニスタンの農民はケシを作ったのです。
ケシなら育てることができ、現金が手に入ったのです。
つづく
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