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2019年8月23日 (金)

北海道開拓 平成・昭和期の開拓物語

 

今日は令和元年8月23日。

  

前投稿の続きで、6月15日放映の

ETV特集  希望の大地 ~北海道 厚真町 ふたりの開拓物語~」より。

  

石川県の二俣からきた移住者の様子を、

厚真町町長の宮坂さんと、ナレーターの説明を聞き書きします。

 

宮坂:私も厚真町で言えば、三代目になります。

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  先祖は、石川県の二俣というところから出てきています。

  (中略)

ナレーター:明治28年。肥沃な土壌と清流に恵まれた土地に

  4軒の家族が、その翌年には35軒が二俣から入植。

  人々は、巨大な木を1本1本切り倒し、道をつけ、

  新天地に希望を託しました。

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宮坂:当時は河川の改修も進んでいませんので、

  堤防もない時代ですからね、ちょっと雨が降ると、

  (川が氾濫して)開墾した耕地が台なしになっていく。

  それにもめげず、もう一度整備をし直す。作づけをする。

  その繰り返しでした。

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  それが厚真町の歴史でしたので、共同意識も共同作業と

  いうことも、経験的に当たり前だったということを、

  繰り返したんだと思います。

ナレーター:入植の3年後には、北海道全域で大洪水が発生。

  厚真でも28人が命を奪われます。

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  川の水を治めようと、開拓者たちは用水路を掘削(くっさく)。

  それが水田づくりの礎となりました。

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  今も厚真の田んぼでは、当時の木の根が出土します。

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  開拓者たちの歴史は自然との闘いの歴史でした。

  そして昭和のはじめ、当時の厚真村は、北海道でいち早く、

  地元産の米をブランド化。

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  本州に出荷するまでになりました。

  当時から変わらず作り続けている厚真最高級の米「さくら米」

  町の誇りです。

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宮坂:(厚真町の)北部山間地の皆さんが元どおり、

  プライドをかけて守ってきたお米作りを、

  今後も再開できるように、継承できるように、

  一丸となっていくことが大切ではないかなと。

  北部山間地を復旧させる意味は、

  厚真町が復興していくための大切な要素だと思っています。

  

     

番組のラストは、昨年の地震で土砂崩れや地割れが起こり、

被害を受けた用水路が復旧して、水が流れるシーンでした。

ことし、厚真町ではお米が作られていると思います。

  

今回の災害で、厚真町では35人の命が奪われました。

でも厚真町ではお米づくりがはじまり、

厚真町の歴史は途絶えることなく動き出しました。

今は明治期の開拓について注目して調べていますが、

今、厚真町の北部山間部で行われていることは、

平成・令和期の開拓に思えます。

番組のタイトルに「開拓」が入っている意味がわかった気がしました。

  

以上で「ETV特集  希望の大地 ~北海道 厚真町 ふたりの開拓物語~」の

読み物化完了。

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