北海道開拓 平成・昭和期の開拓物語
今日は令和元年8月23日。
前投稿の続きで、6月15日放映の
「ETV特集 希望の大地 ~北海道 厚真町 ふたりの開拓物語~」より。
石川県の二俣からきた移住者の様子を、
厚真町町長の宮坂さんと、ナレーターの説明を聞き書きします。
宮坂:私も厚真町で言えば、三代目になります。
先祖は、石川県の二俣というところから出てきています。
(中略)
ナレーター:明治28年。肥沃な土壌と清流に恵まれた土地に
4軒の家族が、その翌年には35軒が二俣から入植。
人々は、巨大な木を1本1本切り倒し、道をつけ、
新天地に希望を託しました。
宮坂:当時は河川の改修も進んでいませんので、
堤防もない時代ですからね、ちょっと雨が降ると、
(川が氾濫して)開墾した耕地が台なしになっていく。
それにもめげず、もう一度整備をし直す。作づけをする。
その繰り返しでした。
それが厚真町の歴史でしたので、共同意識も共同作業と
いうことも、経験的に当たり前だったということを、
繰り返したんだと思います。
ナレーター:入植の3年後には、北海道全域で大洪水が発生。
厚真でも28人が命を奪われます。
川の水を治めようと、開拓者たちは用水路を掘削(くっさく)。
それが水田づくりの礎となりました。
今も厚真の田んぼでは、当時の木の根が出土します。
開拓者たちの歴史は自然との闘いの歴史でした。
そして昭和のはじめ、当時の厚真村は、北海道でいち早く、
地元産の米をブランド化。
本州に出荷するまでになりました。
当時から変わらず作り続けている厚真最高級の米「さくら米」
町の誇りです。
宮坂:(厚真町の)北部山間地の皆さんが元どおり、
プライドをかけて守ってきたお米作りを、
今後も再開できるように、継承できるように、
一丸となっていくことが大切ではないかなと。
北部山間地を復旧させる意味は、
厚真町が復興していくための大切な要素だと思っています。
番組のラストは、昨年の地震で土砂崩れや地割れが起こり、
被害を受けた用水路が復旧して、水が流れるシーンでした。
ことし、厚真町ではお米が作られていると思います。
今回の災害で、厚真町では35人の命が奪われました。
でも厚真町ではお米づくりがはじまり、
厚真町の歴史は途絶えることなく動き出しました。
今は明治期の開拓について注目して調べていますが、
今、厚真町の北部山間部で行われていることは、
平成・令和期の開拓に思えます。
番組のタイトルに「開拓」が入っている意味がわかった気がしました。
以上で「ETV特集 希望の大地 ~北海道 厚真町 ふたりの開拓物語~」の
読み物化完了。
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