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2019年6月20日 (木)

「収容所から来た遺書」1/山本幡男(はたお)

 

今日は令和元年6月20日。

  

また本を完読。

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収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)

 

本を買うと、最後のページに購入日を記入します。

この本の購入日は「1998年11月9日」

購入してから21年ぶり。

この本の初版が出たのが1989年6月25日なので、

発刊されてから30年してやっと読みました。

  

このお話の主人公は、山本幡男さん。

「幡男」は、現在あまり見慣れない名前です。

本文の最初に登場した時には、

「幡男」には読み仮名がついていましたが、

後はなかったので、

何という名前だったかすぐに曖昧になります。

もう一度確認すると「はたお」と読みます。

また読み方は忘れるかもしれませんが、

漢字4字の「山本幡男」は忘れない名前になりそうです。

いやいや忘れてはならない名前だと思います。

  


1945年8月15日の終戦後、

満州にいた日本人はソ連へと連行されました。

その数なんと60万人。

彼らには極寒地での過酷な労働が強いられました。

そのうち7万人がシベリアで

亡くなったと言われています。

それでも多くの人たちが帰国できたのですが、

その中で、捕虜ではなく戦犯という判決を受けた

長期抑留者たちがいました。

最長で11年以上抑留されました。

山本幡男さんもそんな長期抑留者の一人でした。

  

この本では、山本幡男さんのことを中心に、彼らが過ごした

収容所(ラーゲリとよばれる)での日々が淡々と綴られています。

劣悪な衣食住環境の中、

死ぬまで働かされると思いながらの日々でした。

誰もが生きる望みを失うなか、

山本さんだけは決してあきらめませんでした。

俳句会を開いて、俳句を通して日本を思い出し、

いずれ日本に戻ることを信じて、日本語を磨きました。

俳句づくりは、多くの長期抑留者の過酷な生活の癒しになっていきました。

生きて日本に帰国する、あきらめないと宣言していた山本さん。

しかし、それは叶うことなく、

シベリアの地で病死してしまいます。

昭和29年の8月でした。

亡くなる直前、彼が日本の家族に宛てて書いた遺書。

ほかの抑留者たちは、

いったい何年後に帰国できるかわからないけれども、

いつか帰れる日が来たときに必ず、

山本氏の遺族に遺書を届けると誓います。

シベリアからは紙一枚持ち出すことも許されません。

帰国の日が来たときのため、

抑留者たちは山本さんの遺書を丸暗記しはじめるのです。

山本氏が最後の力を振り絞って書いた

何十枚にも渡る遺書を7人が手分けして暗記。

長期抑留者が日本に帰ったのは、昭和31年の暮れでした。

終戦から11年以上が経っていました。

帰国後、1人ずつから遺書が届けられ、

7通目の遺書が山本氏の未亡人のもとへ届いたのは

実に1987(昭和62)年のことでした。

  

  

この小説は、シベリア強制労働を、

とてもリアルに目の前に見せてくれました。

昭和20年8月15日に、戦争は全く終わっていなかったのです。

日本が戦後復興してだんだん華やかになっていくのと同時期に、

ソビエトではこのようなことがあったのですね。

 

次の記事から、たくさん引用していきたい。

もっと早く読んでおけば、授業で必ず扱った内容です。

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