井伊谷宮 宗良親王のお墓を垣間見る
今日は令和元年5月6日。
10連休のラスト。
連休中にこのブログに投稿したのは、これが25本目。
まあまあのペースかな。
通算6195本目。6200本の区切りが見えてきました。
5月4日に浜松の井伊谷宮に行ってきました。
井伊谷宮は以前も行っていましたが、
見逃してきたものを見たいと思って出かけました。
※ここでも道草 くじけない後醍醐天皇その3/井伊谷の宗良親王(2019年3月2日投稿)
この記事で書いたように、井伊谷宮は後醍醐天皇の息子のひとり、
宗良(むねよし)親王が祭られている神社。
宗良親王が、南朝勢力拡大のために
一時期根拠地としたのが井伊谷でした。
前回行った時には、そのような知識がなく、
井伊谷宮の価値がわかっていませんでした。
いやいや、正確には宗良親王のことを知りませんでした。
井伊谷宮の鳥居から、入口方面を撮影。
鯉のぼりが飾られていました。
宗良親王の歌が通路の左右に2首ありました。
我が齢 共にかたぶく月なれば
見をかくすべき山のはもなし
偽りの言の葉にのみききなれて
人のまことぞなき世なりける
宗良親王が南朝のために戦ったが、最後は劣勢で終えた境遇を知ると
この歌はよくわかります。
ちなみに、宗良親王が井伊谷に来たいきさつは、
Wikioedia 宗良親王には次のように書いてありました。
建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると
還俗して宗良を名乗り、大和国吉野(奈良県)の南朝方として
活躍をするようになる。暦応元年/延元3年(1338年)には、
義良親王とともに北畠親房に奉じられて
伊勢国大湊(三重県伊勢市)より
陸奥国府(陸奥国霊山(現・福島県伊達市))へ渡ろうとするが、
座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、
井伊谷の豪族井伊道政のもとに身を寄せる。
偶然だったのですね。
だからこそ縁があった土地だったかもしれません。
その後井伊谷で落城した後に、長野県大鹿村に移り、
そこを長く拠点として滞在。戦いに明け暮れました。
どこで亡くなったかは諸説あります。
井伊谷に再び戻って、亡くなったという説もそのひとつです。
大鹿村のことについては次のサイトが参考になります。
また機会があったら行きたいです。
そうそう大鹿村と言えば、こんな映画がありました。
映画「大鹿村騒動記」(2011年公開)
まだ見たことがない映画ですが、宗良親王には関係がないかな?
話を井伊谷宮に戻します。
本殿です。
本殿横の井伊谷宮のことを書いた説明板↓
前に来た時も読んでいると思いますが、
今回はじっくり頭の中に入ってきました。
ここに書いてある通り、本殿裏手に宗良親王のお墓があります。
前回はそちらまで行きませんでした。
今回は行きました。
敷地内には入ることができず、垣間見てきました。
NHKは入ることができたんだよなあ。
2011年放映「歴史秘話ヒストリア」の写真です。
別角度から撮影。
この石垣に囲まれた森の中に、お墓があります。
いつかは行きたいと思っていたことを、
一つ実行しました。
「ブログの内容が、また一つ多彩になりました」
と、今回はそう思ったので、つぶやきました。
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