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2018年8月24日

2018年8月24日 (金)

「8月15日のプレーボール」その6.芦屋中/ポール・ラッシュ中佐が贈った記念ボール

 

今日は8月24日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

 

浪華商業、松本市立中、和歌山中に引き続き、

次の学校はここ↓

Rimg0152_2  

兵庫県立芦屋高校と思われます。

(番組最後の資料提供のテロップより)

この高校については、次のサイトがいい。

あしかび会事務局だよりNHK「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール」に芦高野球部創部の頃の写真が登場(8月1日) 

当時は芦屋中学校

この写真が使われることを、報じています。

番組だと左端の部員の顔が、

「歴史秘話ヒストリア」のマークで消えていて、

ちょっと悲しいです。

上記サイトによると、「翠球」(兵庫県立芦屋高等学校野球部五十年史)

56ページに掲載されている1946年(昭和21年)に撮影された写真だそうです。

左端の部員さんの顔を、この本で見てみたいですね。

機会があれば・・・・、でもそんな機会はないかな?

さらに、このサイトにリンクがあったのがここ↓

あしかび会事務局だより 「芦屋の奇跡」野球部全国大会初出場と記念ボール(昭和21年8月)

記念ボールとは?

引用します。

  

太平洋戦争終戦から1年後の1946年(昭和21年)8月15日、

甲子園球場が進駐軍に接収されていたため、

阪急西宮球場(現在の阪急西宮ガーデンズの場所にあった。)

で開催された戦後初の第28回全国中等学校優勝野球大会の

出場校(19校)の主将にGHQ(連合国軍総司令部)の

ポール・ラッシュ中佐から記念のボールが贈られた。

初出場の兵庫県代表芦屋中学の橋本修三主将に贈られたボールが、

このほど朝日新聞(2015年7月29日付夕刊・東京本社発行)に

掲載された次の写真のボールです。

(写真は省略) 

 

上記サイトに、1946年8月16日の朝日新聞の記事の

写真がありました。その記事の中に、

ポール・ラッシュ中佐から記念ボールが球児に

贈られる写真がありました。

部分だけ載せます。

Doc20160316174604_001_2  

このポール・ラッシュ中佐。

山梨県北杜市に「ポール・ラッシュ記念館」があります。

私は、今回初めて知った人ですが、

戦後の日本に影響を与えた人なのでしょうか?

またいつか調べてみたいです。

 

芦屋中のお話はここまでにして・・・・・

  

 

この同じ紙面に、成田中(千葉県)VS京都二中の試合のことが、

書かれていました。その部分だけ転載します。

Doc20160316174604_001_3  

記事の文章を一部引用します。

  

成田には第六回二死後両石原の二安打で

好機をつかむかと見えたが、

石原(照)の本塁滑り込みの失敗で

寸前に憤死したのは、(中略)惜しまれる。

  

「歴史秘話ヒストリア」では、まさにこの場面を

再現ドラマで紹介していました。

次の投稿で書きます。 

「8月15日のプレーボール」その5.松本市立中/和歌山中

 

今日は8月24日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

 

1945年の秋に、

1946年の8月に、全国中等学校優勝野球大会が

6年ぶりに行われるという知らせがありました。

その知らせを受けて、浪華商業野球部復活した話を前投稿で書きました。

番組のその続きを、聞き書きします。

 

 

ナレーター:この頃、全国各地でも野球チームが

  次々に活動を再開していました。

  白球を追うことで、失われた青春を取り戻そうとしたのです。

 

この場面で紹介されたチームの写真を3枚。

 

Rimg0150

長野の「MMM」

どこの高校だろう? 調べました。

長野県立松本美須々ケ丘高校のようです。

(番組最後の資料提供のテロップより)

1946年春創部。

 

なぜ、松本美須ケ丘高校なのに、Mが3つ?

「松本」のM、「美須々ケ丘」のMで2つなのでは?

この疑問が気になったので調べました。

この資料がよかった。

松本美須々ケ丘高校 野球部創部70周年記念号 2015年10月発行

そこに答えがありました。

  

当時、美須々ケ丘高校は、松本市立中学校という名前でした。

(松本市立中学校)Matsumoto Municipal Middle Schoolの

M3つなのだそうです。

スッキリしました。

この記念号は読みごたえのあるものでした。

番組中に出てきた写真の出所もわかりました。

Rimg0164  

この写真、印象に残っていました。

記念号に載っていました。

Photo_2  

全国中等学校優勝野球大会でのシーンでした。

写っていたのは、松本市立中学校(美須々ケ丘高校)でした。

日付までわかってしまった!

この記念号に感謝。

  

  

では2校目。

Rimg0151

和歌山県立桐蔭高校と思われます。 

(番組最後の資料提供のテロップより)

当時の校名は和歌山中学校

 

桐蔭高校と言うと、今年100回記念大会で優勝した

大坂桐蔭高校(1988年~)を思い出しますが、

和歌山県立桐蔭高校の方が先輩のようです。

Wikipediaによると「桐蔭」という名前は、

和歌山県立桐蔭高校初代会長の命名によるようです。

引用します。 

  

校名

1948年5月10日の開校に際し、

初代校長・松野三郎の命名によるもので、

有名な漢詩である「少年易老学難成 一寸光陰不可軽

未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声」(少年老い易く、学成り難し。

一寸の光陰軽んずべからず。未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢。

階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声。)から、

「桐のようにすくすくと真っすぐに育て」という願いと

「寸刻を惜しんで勉強をせよ」という意味が込められている。

 

「梧」は「青桐」のこと。

今まで「アオギリ」について書いたことがありました。

ここでも道草 一葉落ちて天下の秋を知る(2011年11月3日投稿)

ここでも道草 「アオギリ」も葉っぱがキリに似ている(2016年8月27日投稿)

 

この漢詩の意訳を別のサイトから引用。

関西吟詩文化協会 漢詩紹介

 

詩の意味

若者はアッという間に年をとってしまい、

学問はなかなか完成しにくい。

だから、少しの時間でも軽軽しく過ごしてはならない。

池の堤の若草の上でまどろんだ春の日の夢がまだ覚めないうちに、

階段の前の青桐(あおぎり)の葉には、もう秋風の音が聞かれるように、

月日は速やかに過ぎ去ってしまうものである。

 

鑑賞

今も昔も人生は短く学問の道は遠い

前半二句は今でも親や教師が口にしそうな

若者向きの学問のすすめです。

後半二句の具体的な比喩(ひゆ)が説得力をもっています。

若さをむさぼり楽しんでいるうちに秋風が吹いてきて

人生は終わりに近づくのですよと諭(さと)しています。

いわゆる勧学(かんがく)の詩として最も親しまれています。

  

 

脱線して、いい勉強ができました。 

3校目は、次の投稿で。

  

つづく。

    

「8月15日のプレーボール」その4.浪華商業野球部の復活

 

今日は8月24日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

  

戦争で中断していた高校野球大会。

その復活の知らせは、1945年秋に届きました。

 

Rimg0147

Rimg0148  

1946年の8月に、全国中等学校優勝野球大会が

6年ぶりに行われるという知らせです。

(終戦直後の知らせ。素早いです)

この知らせを聞いて、戦争で野球部が廃部になった学校で、

野球部が復活したり、野球部がなかった高校でも、

野球部が創設され始めました。

 

番組では、最初、浪華商業のことが紹介されていました。

※「浪華」を何と読むのだろうと思って、調べました。

 「なにわ」でした。

元野球部員が、他のメンバーを集める時の台詞です。

 

話聞いてくれ、後輩諸君。

バット振って、カーン当てて、ダー!走ったら、

ごっつ気持ちええと思わんか。

  

元野球部員の熱のこもった呼びかけで、

素人同然の学生までが集まったそうです。

全部で14人での再スタートだったそうです。

Rimg0146

  

当時の新入部員の手記には次のように綴られていたそうです。

 

何か体ごとぶつかるものが欲しい!

という思いに駆り立てられました。

「これだ!これなんだ!」

待ちに待ったものが

現れた思いがしました。

(三村脩さんの手記より)

  

敗戦直後のうちひしがれた学生にとって、

うれしい知らせだったようです。

ただ、野球部ができたけど、道具がない。

番組では、お母さんが嫁入り道具の琴を闇市で売って、

その闇市でグローブを手に入れて子どもに渡した話が紹介されました。

当時はグローブはなかなか手に入らない、そして高価なものでした。

当時貴重だった米一升と、野球ボール1個の値段が

一緒だったそうです。

  

浪華商業も同じです。

当時のメンバーだった人へのインタビュー記事を読みました。

戦争体験者インタビュー 島田雄三さん 山本英夫さん

Photo 左:島田さん  右:山本さん 

一部引用します。

  

(戦争で)淡路にあった浪商の校舎は消失。

戦後は東淡路小学校の校舎を間借りして、授業が再開した。

野球部は4年生(昭和20年)の後半ごろに再開。

同級生や後輩はみんな疎開先から戻ってきて、

部員は30名ほどだった。

都島の高倉にあった鐘紡のグランドを借りて練習をしたり、

プロ野球で活躍する先輩が練習道具をもってきてくれるなど

浪商OBの協力が大きかったそうだ。

最初は14人のスタートでしたが。

30名ほどになったのですね。

  

 

他の学校の野球部については、

次の投稿で。

 

 

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