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2018年3月25日 (日)

20180304報告その7 江の供養塔を見に行きました

今日は3月25日。

 

前投稿の続きで、3月4日に訪れた京都の寺社の報告です。

  

金戒光明寺の三門や魅力的な階段を見た後、

墓地へ向かいました。

 

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「極楽橋」「蓮池」です。

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この説明板の文章を書き写します。

 

極楽橋・蓮池(別名 兜の池)

平安末期の源平の戦いで有名な武将熊谷直実が、

庵を結んでいた法然上人を尋ね、出家を決意し兜を置き、

弓の弦を切り弓を池に架けた形が起源といわれる。

近世においては、寛永五年(1628)に春日局が

徳川二代将軍秀忠の正室お江与の御台墓(みだいばか)を

建立し参拝する為に、蓮池に木造の「極楽橋」を寄進した。

その後、寛永十年に豊永堅斎が二代将軍秀忠公追善菩薩の為に

山上に三重塔を建立し、同十八年(1641)に「極楽橋」を

石橋に作り替えた。

江戸時代の『都花月名所』には蓮の名所と謳われている。

この度、三百六十有余年の時を経て改修、

擬宝珠(ぎぼし)・欄干を付け、極楽浄土の橋を再現した。

 

3月4日は梅の花が咲いていました。

その時につぼみだった桜が、今はしっかり咲いているだろうなあ。

   

  

この極楽橋の近くにある徳川秀忠正室の江(ごう)の供養塔を見てきました。

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春日局の追善のためとこの説明板にもありますが、

なぜ金戒光明寺に供養塔があるのか?

調べました。

このサイトから引用します。

JR東海ツアーズ お江ゆかりの地を訪ねる

 

金戒光明寺

寛永5年(1628)、3代将軍徳川家光の乳母・春日局(かすがのつぼね)が

建てたお江の供養塔が残されています。

秀忠が作った「大奥法度」に基づき一般社会から

隔離された世界「大奥」では、次男・忠長を溺愛するお江と、

長男・家光の擁立に励んだ春日局の熾烈な跡継ぎ争いが行われました。

結局、春日局に軍配が上がり、忠長は25歳での自害、

お江は失意のうちに死を迎えることとなりました。

お江の供養塔には春日局の追善の気持ちが込められ、

隣には忠長の供養塔も立てられています。

また明智光秀の臣下で、秀吉との山崎合戦後に

打ち首となった春日局の父・斎藤利三が、

金戒光明寺の隣にある真如堂で眠ることから、

お江の供養塔の建立地にこの地を選んだとも伝わります。

 

なるほどです。

江の供養塔付近から、山門と極楽橋を撮影。

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絵になるんだよなあ、山門って。

さらに墓地を登って、三重塔(文殊塔)を見に行きました。

 

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いかん、ここにも運慶の作品があった。

見てくるのを忘れました。

この文章を撮影時はしっかり読まず、

帰宅してから読んだので、後の祭りです。

※参考:金戒光明寺HP 

この三重塔にたどり着いて、振り返るとこれまたいい景色。

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山門が主人公の景色です。

 

つづく

 

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