真田丸シリーズ11.次々と主君を変える真田昌幸
今日は2月27日。
大河ドラマ「真田丸」が放映されているため、
真田氏に関する番組は多いです。勉強のチャンスと言えます。
2月25日放映の「英雄の選択」は「第一次上田合戦」のことでした。
真田昌幸と徳川家康との戦いでしたが、
なぜ2人は戦うことになったのかを、
1月14日の「片岡愛之助の解明!歴史捜査 家康を瀬戸際まで追い詰めた男!
真田信繁と父・昌幸 智謀の系譜を追え!」でわかりやすく説明してくれていました。
番組の写真を交えて、ここに書いてみます。
「徳川家康と真田家 因縁の始まり」
全ての始まりは、織田信長を死に至らしめた「本能寺の変」でした。
天正10年(1582年)6月2日のことでした。
信長の突然の死によって、織田領になっていた旧武田領が宙に浮きました。
その土地をねらって、徳川・北条・上杉が三つどもえとなり
動き出すことになりました。
世にいう「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」です。
※この乱の名前は知りませんでした。
この旧武田領の中に、国衆(くにしゅう)真田家の領地
「小県郡(ちいさがたぐん)」がありました。
土地を守り、領民を守り抜く真田昌幸の
生き残りをかけた戦いが始まりました。
最初に仕掛けたのが、上杉景勝でした。
天正10年(1582年)6月、上杉軍が南下。
小県郡に迫りました。
これを受けて昌幸は、弟正春とともに、上杉の臣下になります。
ところが7月に北条氏が大軍を率いて信濃に侵攻。
そうすると昌幸は、北条の臣下になります。
弟の昌春は上杉に残りました。
兄弟で別の主君に仕える。
これも国衆として生き残るための策だったようです。
北条が攻めてきた混乱も中、昌幸は上野国(こうずけのくに)に進出して
吾妻(あがつま)、沼田を手に入れて領地を増やします。
その後、弟昌春は上杉から徳川家康に身を寄せます。
時を同じくして、家康も旧武田領の土地争いに参加してきました。
8月に北条が徳川に対抗して甲斐の国に侵攻。
甲斐の国をめぐって、徳川と北条がにらみ合うことになります。
その時に家康は、弟昌春を使って真田昌幸にある提案の持ちかけました。
真田の領地を安堵するから、北条を裏切って、
徳川の臣下になれと。
地理的に昌幸が徳川方になれば、徳川にとって有利になるのです。
10月に昌幸は徳川の臣下となります。
徳川の策は功を奏して、北条は徳川との戦いで劣勢となり、
和睦を結ばざるを得なくなりました。
だがこの直後に、家康と昌幸との間に大きな亀裂が入ります。
北条と和睦した際に、家康は何の断りもなく、
真田の領地、我妻と沼田を引き渡すと北条と約束し、
昌幸に明け渡せと命令してきたからです。
昌幸は激怒したと言われています。
国衆が使えている大名の要請を拒否するのは珍しいことだそうです。
しびれを切らした家康が、ある謀略を実行に移します。
それが真田昌幸の暗殺でした。
同じ小県郡の国衆である室賀正武を利用しました。
しかし昌幸は、すばやく暗殺の情報をキャッチして、
逆に正武を返り討ちにしてしまったのです。
昌幸は「家康を主君と仰ぐものか」と決意。
家康との亀裂は決定的なものになったのです。
こうして家康が真田を攻める上田合戦へとつながります。
現在の大河ドラマ「真田丸」は、2月21日の第7話で、
昌幸と弟昌春(ドラマでは信尹/のぶただ)が上杉の臣下になったところ。
上の大きな流れを踏まえて、ドラマを楽しみたいと思う。
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