ボイスレコーダーが捉えたおしゃべり第1号
今日は5月9日。
天気に恵まれて、出張で出かける用事もなく、
自転車通勤で余分にかかる15分も「どうにかなる」と思うことができて、
平日の自転車通勤が続きました。
昨日で10日連続。これだけ続いたのは珍しいことだと思います。
週明けの11日に出張が入り、自動車通勤でないと不都合。
今回の記録は10日連続でした。頑張った。
教室の天井にボイスレコーダーを吊るす実践中。
きっかけは村上公也先生のこの文章に現れている考え方。
自閉傾向のある子ども,特に発達に遅れのある子どもは,
名前と決まりきった定型文しか書けないとか,
自分の思いや想像を文字や言葉にできないとかの理由は,
想像性の欠如という特性からきているというのは,
明らかに間違ったアセスメントである。
このような考えは,文字を教えたら,
それだけで自分の思いや想像を文章にできるという
短絡的な考えからきている。もう笑うしかない。
読んだり書いたりした借り物の「正しい」形式的な話や文章が,
自分の思うすべてだと思い込んでしまうようなことがあってはならない。
オリジナルの思いや想像は,言葉や文字に縛られない
際限のないほど広く豊かなものであるはずなのに,
読んだり書いたりできる技術の範囲内に閉じ込めてしまってはならない。
月並みなフレーズの借り物の「正しい」形式的な話や文章の学習を
繰り返し教えられているうちに,
それが本当の自分の思いや想像だと勘違いしている子どもは
多いのではないだろうか。
たぶん,そのような教育を受けきた大人も多いと思われる。
形式的な「正しい」ことよりも,
自分が自分たり得るオリジナリティ,想像性,創造性が重要である。
そして,それを表現することである。
また,そこで起こる表現者同士の相互作用である。
この魂の交信ともいえる重要なコミュニケーションを
月並みで俗っぽい「正しい」という範囲に限定してはいけない。
※20150310報告5/教科について 表現によるコミュニケーション(2015年3月16日投稿)
私の学級でとても楽しいお話をしてくれる子がいます。
しかし、日記になると面倒臭がって書けず。
「しゃべったことを書けばいいのに」と思い、その子に促すのですが、
うまくいきません。
やっと書いても、月並みな表現になってしまいます。
その子らしさが出ない。
「しゃべったとおり」と言われても、再現することは難しいのでしょ。
それならば・・・・と思いついたのは、ボイスレコーダーを天井から吊るすこと。
子どもたちが教室にいるときには、ずっと録音状態です。
これで、いつ出てくるかわからない楽しいお話を捉えたいと思いました。
そして捉えたら、聞き書きして、それを本人に見せます。
自分のしゃべった言葉を文章で見せて、客観視させたいです。
しゃべったことの文章化を実際に見させたいです。
さらにできたら、清書は本人にやらせたい。
「しゃべったとおりに書く」ことを体験させたいです。
実行して4日目の昨日。ついに楽しいお話を捉えました。
記念すべき第1号のお話をここに聞き書きしてみます。
「おばあさんと私のたん生日はいっしょ。
でも昭和と平成が違うだけ。16年がいっしょ。」
「へえ」
「おばあちゃんはね、昭和16年で、私は平成16年。」
「ほう」
「そしてたん生日がいっしょ。」
「うっそう!」
「本当だよ」
「本当?」
「そうだけど。知らんかったの?」
「知らんかったよう。へえ、すごいねえ。
おばあちゃんと、そんなぐうぜんがある?」
「あるよ。(おばあちゃんは)昭和16年12月10日生まれだから」
その子のしゃべりを聞き書きしたので、その子らしさが出た文章です。
録音した会話と一緒にこの文章を読むと、さらに楽しい気分になれます。
この実践を繰り返すことで、その子らしさの出たいい文章を書けると考えます。
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