平将門の首塚2/祟り伝説/なぜここに首塚があるか
今日は1月25日。
ずっと前に平将門について書いた続きです。
※ここでも道草 テレビ番組がまたマイブームを作ってくれました/平将門の首塚(2014年12月16日投稿)
やっと書きます。
「幻解!超常ファイル 選 東京ミステリー 平将門の首塚」
(2014年11月1日放送/7月放映の再放送)より。
この番組のことを書く前に、そもそも首塚がどこにあるかチェックします。
思ったより東京駅から近いのは都合がいい。
月末に東京に行きます。
めったに行かない東京だけに、
行ったのならいろいろしっかり見てこようと思います。
その一つが平将門の首塚です。
番組では平将門の首塚に関する祟りを次のように説明していました。
ナレーターの語りの聞き書きをします。
東京都千代田区。
皇居の東側に面し、大手の銀行や商社がひしめく、ビジネス街。
大手町高層ビルの一角に、鬱蒼とした空間がある。
将門塚。
およそ1200年前、平安時代の豪族平将門の首を祀(まつ)っている。
恐ろしい怨霊、将門の荒ぶる魂を鎮めるために建てられた石碑。
かつてここにはその名の通り、巨大な塚が設けられていた。
明治時代に描かれた首塚。高さ6m、周囲27mほど。
巨大な木々に囲まれ、昼でも暗く、鬼気迫る場所。
塚の前には大きな蓮池が広がり、明治期は大蔵省の敷地内にありながらも、
古(いにしえ)の姿を静かに留めていたと言う。
しかし、将門祟り伝説の幕開けは、大正12年9月の関東大震災。
帝都を焼け野原にした災害がきっかけだった。
大蔵省も庁舎が全焼。そのため、敷地内に仮庁舎を建てることを決定したのだ。
震災から2ヶ月後、首塚に手がかけられた。
塚を崩し、蓮池を埋めたてたその上に、やがて仮庁舎は完成。
すると、現役の大蔵大臣が病死。
大蔵省の建築担当者をはじめ、十数人が次々に死亡。
けが人も続出。
さらにまるで天罰のように大蔵省に落雷。
周辺の官庁まで焼き尽くしてしまったと言う。
次の祟りの標的は日本を占領した連合軍の総司令部GHQ。
昭和20年、敗戦直後の東京に、空襲による焼け野原が広がる時代、
日本を変えようとする勢力がやってくる。
元の場所で再び祀られていた将門塚に、
今度はGHQが手をかけようとする。
大手町に広大な駐車場を建設中、首塚を潰そうとしたところ、
ブルドーザーが横転し、運転手が死亡。
その後も不審な事故が相次ぎ、首塚の取り壊しは中止になったという。
大蔵省、GHQ、将門の怨霊は首塚に手を出そうとした官僚や権力者に、
次々に禍(わざわ)いを及ぼしたのである。
これが平将門の首塚の祟りの説明です。
ではなぜこの場所に平将門の首塚があるのか。
これもナレーターの語りの聞き書きをしてみます。
平安時代の半ば、北関東の一豪族だった将門は、
周辺の豪族を次々に打ち破り、関東全体の支配者になる。
将門は朝廷からの支配から独立し、こう名のる。
「新皇」
これは天皇と朝廷への反逆行為だった。
将門は朝廷側の討伐軍に抵抗するが、野望半ばに敗北。
その首は京都に運ばれ、さらし首になったという。
ところが伝説では、将門の首は、夜な夜な怪しい光を放った上、
「私の胴体を返せ、頭をつないで一戦(ひといくさ)してやる」
そう叫んだ将門の首は、胴体のある関東へと飛び去って行った。
将門の首塚は、その首が落ち祀られた場所と言われる。
まさに反逆と復讐心が渦巻く、手を出してはいけない地なのだ。
(次の投稿につづく)
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