神保修理は実際はどう動いた?
今日は6月3日。
NHK大河ドラマ「八重の桜」から。
5月26日放映のタイトルは「敗戦の責任」
1868年1月の「鳥羽・伏見の戦い」の敗戦の責任のことです。
旧幕府軍側の総大将徳川慶喜が会津藩主松平容保らと大坂城を脱出。
江戸に引き上げました。
この事件は有名でしたが、この事件で悲劇の最期を遂げた
神保修理(じんぼしゅり)をいう人に興味をもちました。
徳川慶喜(小泉孝太郎)
神保修理(齋藤工)
徳川慶喜に神保修理がこう言っています。
「恐れながらに申し上げまする。
我が軍勢、兵の数こそ敵にまさってはござりまするが、
軍略は乏しく、このまま戦を続けては、兵を失うばかりと拝察つかまつりまする」
「兵たちを率い、一旦江戸に戻り、戦略を立て直すべきかと存じまする」
慶喜が江戸に戻ることを神保修理が提案したことになっています。
この後、慶喜は容保に命令します。一緒に江戸に行くことを。
右が松平容保(綾野剛)
その時に慶喜が江戸行きに難色を示した容保説得のために言ったのが2つ。
1つ。会津藩家訓。徳川家を守りなさいと書いてある保科正之の作った家訓。
そしてもう1つが、江戸への引き上げを提案したのが神保修理だということ。
特に神保修理の提案という発言に、グラっときます。
神保修理は、江戸引き上げを提案して敗戦へと導いたということで切腹をすることになります。
容保が断腸の思いで切腹を命じるシーンもありました。
神保修理に興味を持ち調べてみると、こんなこともわかりました。
・神保修理が、直接慶喜に江戸引き上げを提案することは考えられない。
・神保修理が、そもそも江戸引き上げを考えることはない。
・神保修理の切腹は、会津藩の抗戦派の陰謀によって、
容保とも対面できず、弁明の機会も与えられずに行われたようだ。
・神保修理は、切腹の命令が容保の本当の命令ではないのを承知で切腹したようだ。
慶喜の大坂城脱出事件の裏で、その責任を負って命を落とした人がいたことを知って興味をもちましたが、
真実はどうだったのだろうと思うようになりました。
歴史に埋もれてしまうのも酷ですが、
真実が伝わらないのも酷なことだと思います。
「八重の桜」は、神保修理が大坂城脱出を提案したことになっています。
本当にこれでいいの?ドラマで描いてしまっていいの?
抗戦派の陰謀で切腹させられたのではないの?
歴史ドラマの難しさを感じました。
戊辰戦争での会津藩視点の歴史は面白いと思っていましたが、
何が真実なのか不安になってきました。
今回のように、興味を持ったら自分で調べることが大事だと思いました。
左が神保修理の奥さん、雪子(芦名星/あしなせい)。
会津戦争で戦いに身を投じて、死んだとされています。
右が神保修理の父親、神保内蔵助(くらのすけ)(津嘉山正種/つかやままさね)。
会津藩家老。会津戦争中に自刃(じじん)。
昨晩(6月2日)の「八重の桜」では、松平容保が久々に会津藩に戻り、
新政府軍と戦うことを決意し、準備を始めます。
いよいよ会津戦争が描かれます。
じっくり見て、興味をもったら調べてみます。
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