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2012年12月 9日 (日)

テレビで勉強「承久の乱」

 

今日は12月9日。

 

前投稿のつづき。

2012年9月10日放映「BS歴史館 鎌倉ミステリー 北条一族の陰謀 史上最強のナンバー2

を見て勉強になったこと、調べたことを書いています。

 

1205年に畠山重忠を倒した時に、

北条時政は息子義時と娘政子から追放されています。

数々の陰謀で、政敵を倒してきた時政でしたが、

最後の10年は伊豆に流されて隠居させられ、寂しく死んでいったそうです。

 

 

番組のゲスト石坂浩二さん、加来耕三さん(歴史家)、小林恭二さん(作家)が声をそろえて、

北条氏はすごいと言っていました。

朝廷を相手に戦ったのは、後にも先にも北条氏だけであること、

さらには当時世界で屈指の強さであった蒙古とも戦ったこと、

そして両方の戦いに勝ったことをすごいことだと言っていました。

こういう見方をするんだ。なるほどと思いました。

長く尊ばれる武士の決まりを書いた御成敗式目も北条氏によって作られています。

これもすごいこと。

     

   

番組では特に朝廷に勝った承久の乱についてくわしく紹介されていました。

RIMG1914 1221年のことでした。

朝廷側のボスは後鳥羽上皇でした。

文武両道に優れていた後鳥羽上皇は、朝廷と幕府の両方を掌中におさめようと考えていました。

時の幕府の将軍源実朝は、和歌も得意であったことから、朝廷とも接近。

後鳥羽上皇は実朝とつながり官位を与え、しだいに自分のサイドに引き寄せていました。

その実朝が、頼家の息子公暁に殺されたことから、事態はおかしくなります。

 

   

幕府の執権北条義時は、源氏が絶えてしまったので、

後鳥羽上皇に、息子(親王)を将軍につかせたいとお願いします。

後鳥羽上皇は了承しますが、条件をつけました。

朝廷領にいる地頭を罷免しろというものでした。

もともと地頭および守護は、平家の残党を取り締まるために頼朝が命じて置いたものでした。

しだいに強力になった地頭・守護は、年貢にも口を出すようになり、

朝廷への年貢が激減していました。それが後鳥羽上皇には気に入りませんでした。

院宣(いんぜん/院司などが上皇、法皇の意を受けて発行する文書)の形で、地頭罷免の命令が出ました。

RIMG1915

鎌倉幕府にとって、地頭・守護は勢力を拡大する大事な役職。

より多く、広い範囲に地頭・守護を置くことで、勢力を拡大していった。

これを罷免するというのは、幕府の根幹を揺るがすものだったため、

後鳥羽上皇の命令を断ります。

下が、義時が断った理由です。

RIMG1916

RIMG1917

後鳥羽上皇は、義時追討の院宣を発します。

RIMG1918

ここに後鳥羽上皇の策略があります。

幕府の中には、北条氏に不満を持っている一族もいるので、

「義時」追討とピンポイントで攻めたのです。

幕府内での内乱を引き起こしたかったのです。

しかし、ここで北条政子が登場。

家来の御家人たちの前で名演説をします。

その中で、上皇は義時を追討して鎌倉を滅ぼそうとしている・・・・

つまり義時「だけ」追討だったのに、鎌倉を滅ぼそうとしているとすり替えてしまいます。

こうして幕府内での内乱は起こらず、御家人は京都に攻め上がって、朝廷に勝ちました。

  

   

承久の乱が起こった理由が見えてきました。

収穫アリ。北条義時はなかなかの人物でした。

作家永井路子さんが、義時を優秀な人物として描いているそうです。

そんな本も読んでみたいです。



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