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2012年4月

2012年4月19日 (木)

イカリングとポテトサラダ

 

今日は4月19日。再スタートから6日目。

     

夕飯でイカリングとポテトサラダを作りました。

COOKPADのここを参考にしました。

「イカリング」72

「ポテトサラダ」41

   

ポテトサラダはずっと以前作ったことがあるような気でいましたが、

手がけてみて、初めて作っているなと感じました。

ジャガイモをすりつぶした後に、牛乳を入れるところがドキドキしました。

牛乳入れて大丈夫?と不安だったからです。

その後、水気を飛ばすため鍋でジャガイモを熱しました。

レシピには、5分ほどと書いてありましたが、焦げ付き始めてしまい、3分で強制終了。

難しかったです。

イカリングは、イカを捌くのが面白かった。

イカの体のつくりが少しわかりました。

   

奇妙な体だ。

口を取り囲むように足がある。

食べることに特化した形に思える。

足があって、頭があって、内臓がある。

この順番は、不思議だ。

イカは「頭足類」と呼ばれるのは、この順番がいわれのようである。

骨が1本?この1本でいいんだ。

三角形のひらひら。これがヒレ。ここを動かして泳ぐんだ。

内臓の先っぽに、真っ白な魂(たましい)のようなものがついていた。

あれは卵巣?卵? 柔らかく、とてもデリケートそうなものだった。

調べてみた。・・・・卵巣であった。チチコと呼ばれるようだ。

500gが660円で売っていた。

Img10394687594
http://item.rakuten.co.jp/ko-yo-/598530/#598530

理科の解剖をやっている気分。

  

イカリングのソースはウスターソース、みりん、オイスターソースで作りました。

この味がよかった。

最後に一つ残ったイカリングを、娘と息子がじゃんけんで争っているのは、

見ていて気分がよかったです。

5人の食事に2杯のイカは少なかったなあ。次は3杯ですね。

 

 

やっぱり春が似合う「春巻き」

  

今日は4月19日。再スタートから6日目。

     

夕飯で春巻きを作りました。

0
http://hideyukiyoshida.com/recipe/dish1-9.html

お店で春巻きの皮を買ってきました。

初めて買うので、お店のどこにあるか探しました。

餃子や焼売のあるところかと思いきや見当たらず、結局豚肉のある場所でした。

どんな状態で売っているのかもわからずに探したので、時間がかかりました。

     

自分で作ってみて、春巻きの中に何が入っているのかよくわかりました。

ごま油を使ってみて、少しでこんなに香るんだとわかりました。

本当は「細切り(ほそぎり)」と書いてあったのに、「細切れ(こまぎれ)」と間違えて、

材料をすべて小さく切り刻んでしまい、歯ごたえがイマイチでした。反省。

   

なぜ「春」?

これも調べました。Wikipediaにこう書いてありました。

元々は、立春のころ、新芽が出た野菜を具として作られたところから「春巻」と名付けられた。

時期的には、まあまあいい時に作ったことになりますね。   

 

 

「戦火の馬」・・・第一次世界大戦の特徴

  

今日は4月19日。再スタートか6日目。

     

映画「戦火の馬」を見てきました。

1177

馬の演技が上手でした。

馬がちゃんと演技していることに感心しました。

どうやって撮影しているのか興味あり。

最後にたて続けて泣ける場面がありました。

    

第一次世界大戦の特徴が随所にありました。

騎兵隊がサーベルを持って突っ込む作戦。

迎え撃つ機関銃。

大砲と塹壕。

ドイツ軍、イギリス軍のヘルメット。

毒ガス!

イギリスの戦車。ドイツ兵は恐れて走って逃げていました。

1995年に放映された「映像の世紀」(NHK)で初めて知った戦車。

戦場で、この戦車を見たら、恐怖だっただろうな。

主人公の馬も、この戦車を見て驚き、逃げます。

戦車の映像を見つけたので載せます。

    

   

この映画は、社会科の授業で利用できる。

授業で見せられなくても、映画なら「見るといいよ」と紹介できます。

・・・私はすぐに授業で使えるかどうかの視点で見てしまいます。   

がれき広域処理の広告

   
今日は4月19日。再スタート6日目。

        

3月6日の朝日新聞朝刊に、

環境省の広告が紙面2p分デーーンを載っていました。

RIMG0584新聞全体
   

左下のアップです。

RIMG0586左下
   

右下のアップです。

RIMG0588右下
   

※環境省の広域処理情報サイトはここ。

http://kouikishori.env.go.jp/

  

   

広域処理には賛成です。私に何かやれることは?

   

3月7日の朝日新聞にはこんな写真がありました。

EPSON087復興後の船

EPSON088復興前の船

被災直後と3月3日の比較写真。場所は気仙沼。

大型漁船に変化はありませんが、

周りはしっかり片付いています。

たいへんな作業だっただろうなと思います。

作業をされた方たちに敬服。

この写真を見ただけでも、がれきがたくさん出ることが想像できます。

 

「日本プロ野球復活の日」3 藤村富美男/伝統の巨人・阪神戦

    

今日は4月19日。再スタート6日目。

前投稿のつづき。

日本プロ野球復活の日~昭和20年11月23日のプレイボール」(鈴木明著/集英社文庫)より

   

藤村富美男(1916年8月14日 - 1992年5月28日)

   

昭和11年日本にプロ野球リーグが発足すると、

藤村はすぐタイガースに入り、ピッチャーに登録された。

しかし、気性としては、どうもバッターの方が柄に合っている。

昭和12年にセカンドに転向し、打撃専業になると、

忽ち三割を打ち、ベストテン3位に顔を出した。

豪快なツラがまえ、大きなジェスチャア。

藤村富美男は、まるで阪神タイガースを背負うために生まれてきた男のようだった。

しかし、藤村も戦争ばかりは勝つことはできない。

昭和12年に、中国と戦争を始めた日本は、

大量の若者を前線に送り込むことになった。

昭和14年、24歳だったガッチリした男は、1枚のハガキで、軍隊入りが決まった。

「野球で、少しは金も稼いだし、思い残すことはない。

だがな、おれは簡単には死なんぞ。生きて、生きて、生き抜いてやる」

藤村は、性格そのもののような言葉を残して、ユニフォームを軍服に着がえた。

軍隊に入ってからの藤村は、まさにその通りの運命だった。198p)

   

藤村選手は生き延びました。

生き延びて、再び阪神タイガースで活躍し、「ミスタータイガース」と呼ばれます。

   

    

伝統の巨人・阪神戦

  

いまでも多くのファンは、「伝統の巨人・阪神戦」という。

しかし、その「伝統」なるものは、実際には昭和11年から昭和15年までの5年間を

指したものだといってもいい。

11年巨人、12年阪神、13年阪神、14年巨人、15年巨人と、

優勝はそれぞれ入れ替わったが、2位はいずれも阪神か巨人のどちらかであった。

プロ野球初期の「伝統」を作りあげた名選手沢村、スタルヒン、三原、水原、白石、呉、

平山、川上、吉原、楠、千葉、中島、若林、西村、松木、藤村、本堂、景浦、山口、藤井

などという名前が、それぞれに個性と個性をぶつけ合って、

華やかに競い合っていたのもこの時期である。

それは、いま思えば日本が太平洋戦争へと突入する直前の、

一種の徒花(あだばな)のようなものだったかもしれない。206-207p)

   

かねてから疑問には思っていました。

いつ「伝統」が始まったのかを。

ペナントレースが始まったのが昭和11年。最初からの5年間だったのですね。

   

   

昭和20年8月15日に終戦。

その同じ年の11月23日。プロ野球はスタートしていました。

そこに集まった人たち、集まれなかった人たちの話がたくさん詰まった本でした。

「日本プロ野球復活の日」2 野口明/広瀬習一

  

今日は4月19日。再スタートから6日目。

前投稿のつづき。

   

日本プロ野球復活の日~昭和20年11月23日のプレイボール」(鈴木明著/集英社文庫)より

   

野口明(1917年8月6日 - 1996年10月5日)

  

戦後、彼は、中日ドラゴンズを中心にして昭和30年までプレーを続け、

そのファイトあふれるプレーは、

今でも名古屋っこの眼の底に、深く焼きついている。

僕が、「野口明のところに取材にゆく」

と、名古屋駅前のタクシーの運転手に告げたとき、この運転手は、

「あのキャッチャーの野口ですか。今でも私は、

ドラゴンズが日本シリーズで勝った時の野口を忘れていないと、伝えてください」

といった。

僕が出会った野口明は、温厚で飾り気のない、地味な喫茶店の主人だった。

彼は「私の記録なんか平凡ですよ」と語った。

確かに戦後の何年間か「四番」の座を占めてはいたものの、

野口の生涯打率二割五分、二十年間プロに在籍したという以外、

きわだった記録はない。

しかし、二十二歳から三十歳まで、彼は野球選手としての生命ともいうべき

貴重な八年の時期を、戦争で失っているのである。

「運が悪かったんですね」

と僕がいうと、彼は真面目な顔で、こう答えた。

「そうじゃありませんね。違います。私は運がよかったんですよ。

生き残って、野球でメシが食えて、今でもこうやって、

私を忘れないでいてくれる人がいるんだから・・・・。

私は、いまのプロ野球の人たちに比べても、恵まれていると思っていますよ・・・・」172-173p)

   

たくさんの戦死者を見てきたから言えるんだろうなと思います。

野口さんは日中戦争に参戦していました。

   

    

広瀬習一(1922年3月15日 - 1944年9月13日)

    

楠(安夫)には、同じ時期にいたもうひとりの名選手が忘れられない。

昭和十七年、巨人軍は五度目の優勝を遂げて、その面目を保ったが、

この原動力となったのは、実は「広瀬習一」という、無名の青年のせいであった。

この広瀬という青年は、昭和十六年の夏、西宮に遠征した巨人軍が泊まっている

宝塚の合宿に、グローブをひとつだけ持って現れ、

「ぼくの球を見て頂けませんか?」

と売り込んできたのである。

「とにかく、投げてみい」

というので、夕暮の河原に出て、楠はこの青年の球を受けた。

サイドスローから投げる球は自然にシュートして、手許で恐ろしいほど伸びてきた。

「職業野球に入ってもすぐに兵隊にとられるかも知れん。それでもいいのか」

と楠がきいた。青年は、

「それまでは、少しでもお金を頂いて、おふくろに送りたいです」

と恥ずかしそうに答えた。巨人軍はこの青年を、すぐに入団させた。233-234p)

  

昭和16年に9勝。17年に21勝。広瀬選手は活躍。

俊足も生かしたようです。

大津出身の彼は、巨人軍の東西移動で、大津駅に列車が停車するたびに、

ホームに降り立ったそうです。

そこには母親が来ていて、短い時間(数分間)会い、別れを惜しんでいた姿を、

多くの巨人軍選手がおぼえているとのこと。

母ひとり、子ひとりだったのです。

    

昭和17年末、わずか1年ちょっとの巨人のユニフォームをぬいで、

広瀬は戦場に出ていった。

「フィリピンに行った」

という風の便りはあったが、ほかに、この天才少年だった広瀬習一に関する情報をきいたものはいない。

百メートル十一秒の「疾風」も、米軍の弾には勝てなかったのだろうか。

それとも山中で、むなしく餓死していったのだろうか。

何しろフィリピンにいた日本守備隊の数は62万5千8百人。

そして何とそのうち49万8千6百人は、戦死、ないし戦病死したのである。235p)

    

お母さんはつらい思いをしただろうなあ。

広瀬習一さんについても、2009年に1冊の本が出ていることを知りました。

前投稿で紹介した石丸進一さんの本とともに、読んでみたくなりました。

 

 

戦火に消えた幻のエース―巨人軍・広瀬習一の生涯 戦火に消えた幻のエース―巨人軍・広瀬習一の生涯
上田 龍

新日本出版社 2009-06
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「日本プロ野球復活の日」1 大下弘/石丸進一

    

今日は4月19日。再スタート6日目。

 

EPSON086鈴木明
 

20年あまり積読(つんどく)していて、やっと読んだら、

すでに著者はその間に亡くなっていた・・・・・

そんな体験をしました。著者の名前は鈴木明さん。

申し訳ない気持ちも少々、面白いからという気持ちが大で、

最近、鈴木さんの本を読んでいます。

維新前夜~スフィンクスと34人のサムライ」(小学館)

『南京大虐殺』のまぼろし」(文藝春秋)

新『南京大虐殺』のまぼろし」(飛鳥新社)

そして今回「日本プロ野球復活の日~昭和20年11月23日のプレイボール」(集英社文庫)を読みました。

上の写真は、この文庫本の表紙裏の部分です。

   

4冊読むと、鈴木節のような文章の雰囲気がわかってきます。

会話文を多めに、小説のように取材したことを構築していく感じ。

その場で聞いていたかのように、会話文が巧みだと思いました。

    

「日本プロ野球復活の日」には、プレーは見たことがないけど、

名前を聞いたことがある人がたくさん出てきました。

戦前から戦後にかけて、それらの人は生きて、

野球に夢中になったんだと、そんな気持ちを味わいました。

    

大下弘(1922年12月15日 - 1979年5月23日)

彼は、この本の中でこうやって紹介されています。

   

実際には昭和21年から戦後のプロ野球は本格的に再スタートし、

正式のペナントレースが行われているが、

そこに登場してきた選手の大部分は、

戦前の「職業野球」をやっている人たちのカムバック組か、

同じように戦前鳴らした「都市対抗」組である。

川上も、鶴岡も、藤村も、岩本も、青田も、別所も、藤本も、

すべて戦前のプロ野球のユニフォームを身につけたことがある。

しかし、大下だけは違っていた。

彼は戦前のプロ野球に全く関係していない。

そして、昭和二十年、あの敗戦の焼け跡の中から、

突然降って湧いたように誕生したのである。

不世出の大天才大下弘の出現こそは、

文字通り「戦前」と「戦後」とを分ける象徴的な存在であった。

しかし、実は大下が、誰の手によって、何故発見されたのか、

正確なことは、おかしなことに、大下自身も知らないのである。28p)

   

こんな文章を読むと、大下弘がどんな人だったか好奇心が高まりました。

大下選手の活躍が見たかったと思いました。

   

   

石丸進一(1922年7月24日 - 1945年5月11日)

   

この年(昭和17年)の名古屋軍のエースは17勝した石丸進一であった。

石丸は名古屋が巨人に三勝したそのすべての勝ち投手になっている。

そしてよく18年にも20勝し、その年の暮、古川、小鶴とともに「学徒出陣」することになる。

(中略)

古川は後日、石丸の最期をきかされた。

鹿屋の特攻隊基地から飛び立つとき、

彼は1個のボールをしっかりと握っていた、というのである。

「名古屋軍のエース石丸」を知っていたある新聞記者がふと声をかけると、彼は、

「最後までコントロールのいい球を投げてみせます」といった。

(中略)

自ら敵艦に突入した選手は、プロ野球の歴史を通じて、この石丸しかいない。70p)

   

石丸選手は全く知らなかった人ですが、

今回調べてみて、この人のことを書いた本もあり、映画もあることを知りました。

消えた春―特攻に散った投手石丸進一 (河出文庫) 消えた春―特攻に散った投手石丸進一 (河出文庫)
牛島 秀彦

河出書房新社 1994-08
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映画名は「人間の翼 最後のキャッチボール」(1995年)

次のサイトも参考になりました。

「石丸進一コレクション」htm

「野球を奪った特攻 白球に託した思い」html

もっともっと調べていきたい人です。

    

その他印象に残った選手については、次の投稿で。

ハナモモ花盛り/2012「山が笑った」

   

今日は4月19日。再スタート6日目。

   

昨年から気になっていた木。赤い花を咲かせる大きな木です。

「自転車通勤路の傍らの花」html

今年も4月16日に撮影しました。

RIMG0705
  

RIMG0707
   

これはやっぱりハナモモ(キクモモ)でしょう。

今年も見事に咲きました。

   

この日は浜松方面に出向きました。

そこで出会ったハナモモです。

RIMG0670
  

RIMG0674
  

RIMG0676
  

RIMG0680 サクラとの共演(浜松市奥山高原)

RIMG0688 観覧車との共演(浜松市奥山高原)

  

この日は「山が笑った」と思えた日でもありました。

RIMG0703
  

ね、笑っているでしょ。

今年は4月16日が「山が笑った」と(私に)認定された日となりました。

ちなみに平成17年以後の「山が笑った」日の一覧です。

平成17年 4月21日

平成18年 4月21日

平成19年 特定できず

平成20年 4月19日

平成21年 4月10日

平成22年 4月14日

平成23年 4月18日

平成24年 4月16日

  

季節が廻ってきたことを感じる日々です。

   

※参考:「2011 山が笑った」html

   



  

 

 

2012年4月18日 (水)

写真/太陽と飛行機雲/豊川川岸の大変化

  

今日は4月18日。再スタートから5日目。(10日目まで書きます)

   

RIMG0692太陽と飛行機雲
  

今日の学校帰りに撮った1枚。

飛行機雲と夕方の太陽が重なっていました。

すぐに車を停車させ、撮影しました。

太陽の中を飛行機が通過したようにも見える景色でした。

   

   

もう1枚。これも今日の写真。

RIMG0683

前任校で子どもたちと探検した豊川の川岸です。

2009年3月に撮影した同じ場所。

無題
「2009年3月投稿 豊川に迫る」htmlより

  

どうしちゃったんだろう。

かき分けて豊川に迫った枯草がぐっと減って、

菜の花畑のようになっていました。

鬱そうとしていなくて、すっきりしました。

菜の花の種を誰か蒔いたのでしょうか。

草刈りもしたのかな。

この大変化に驚き、こちらも急きょ車を停めての撮影。

2か月ぶりに学校へ/三明寺前のポピーが今年も咲き始めました

  

今日は4月18日。再スタートから5日目。復帰まで今日を入れずに14日。

  

今日は復帰に向けて大きく一歩を踏み出しました~

~なんてね、大げさかな。

でもちょっと勇気がいりました。

午後4時過ぎに学校に久々出勤しました!   

     

2月18日から休み始めたので、学校に最後に出勤したのは2月17日でした。

だからちょうど2か月間、全く学校に行きませんでした。

配慮してもらい、全く行きませんでした。

2か月ぶりの学校・・・出張が多くて出会えた人は少なかったけど、

昨年度まで一緒に勤めていた人たちに会いました。

「こんにちは」「元気そうじゃん」など声をかけてもらいました。

ありがたかった。

今、自分の代わりに働いてくれている講師の先生と会いました。

高校の同級生!

気安い人でよかった。

復帰したらやることの打ち合わせを関係の先生たちとしました。

正式に復帰は5月1日だと思ったら、その日は振替休日だったので2日に。

今日を入れずに、あと14日です。

来週、少しずつ学校に行き、いろいろ準備して5月2日スタートです。

   

今日は1時間あまり学校に滞在して帰りました。

体調はOK。体も心も軽かったです。2か月前と違う自分を感じました。

やっぱり2か月前の自分はおかしかった。

2か月前の自分を客観視できました。

2か月の休養は無駄ではなかったです。

   

   

帰りに三明寺前を通りました。

ふと、ポピーが咲き出していたのに気がつきました。

RIMG0686 RIMG0690
  

5月2日はきっと花盛り。

その前を通って出勤する自分をイメージしました。

 

 

 

 

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