「日本プロ野球復活の日」2 野口明/広瀬習一
今日は4月19日。再スタートから6日目。
前投稿のつづき。
「日本プロ野球復活の日~昭和20年11月23日のプレイボール」(鈴木明著/集英社文庫)より
野口明(1917年8月6日 - 1996年10月5日)
戦後、彼は、中日ドラゴンズを中心にして昭和30年までプレーを続け、
そのファイトあふれるプレーは、
今でも名古屋っこの眼の底に、深く焼きついている。
僕が、「野口明のところに取材にゆく」
と、名古屋駅前のタクシーの運転手に告げたとき、この運転手は、
「あのキャッチャーの野口ですか。今でも私は、
ドラゴンズが日本シリーズで勝った時の野口を忘れていないと、伝えてください」
といった。
僕が出会った野口明は、温厚で飾り気のない、地味な喫茶店の主人だった。
彼は「私の記録なんか平凡ですよ」と語った。
確かに戦後の何年間か「四番」の座を占めてはいたものの、
野口の生涯打率二割五分、二十年間プロに在籍したという以外、
きわだった記録はない。
しかし、二十二歳から三十歳まで、彼は野球選手としての生命ともいうべき
貴重な八年の時期を、戦争で失っているのである。
「運が悪かったんですね」
と僕がいうと、彼は真面目な顔で、こう答えた。
「そうじゃありませんね。違います。私は運がよかったんですよ。
生き残って、野球でメシが食えて、今でもこうやって、
私を忘れないでいてくれる人がいるんだから・・・・。
私は、いまのプロ野球の人たちに比べても、恵まれていると思っていますよ・・・・」(172-173p)
たくさんの戦死者を見てきたから言えるんだろうなと思います。
野口さんは日中戦争に参戦していました。
広瀬習一(1922年3月15日 - 1944年9月13日)
楠(安夫)には、同じ時期にいたもうひとりの名選手が忘れられない。
昭和十七年、巨人軍は五度目の優勝を遂げて、その面目を保ったが、
この原動力となったのは、実は「広瀬習一」という、無名の青年のせいであった。
この広瀬という青年は、昭和十六年の夏、西宮に遠征した巨人軍が泊まっている
宝塚の合宿に、グローブをひとつだけ持って現れ、
「ぼくの球を見て頂けませんか?」
と売り込んできたのである。
「とにかく、投げてみい」
というので、夕暮の河原に出て、楠はこの青年の球を受けた。
サイドスローから投げる球は自然にシュートして、手許で恐ろしいほど伸びてきた。
「職業野球に入ってもすぐに兵隊にとられるかも知れん。それでもいいのか」
と楠がきいた。青年は、
「それまでは、少しでもお金を頂いて、おふくろに送りたいです」
と恥ずかしそうに答えた。巨人軍はこの青年を、すぐに入団させた。(233-234p)
昭和16年に9勝。17年に21勝。広瀬選手は活躍。
俊足も生かしたようです。
大津出身の彼は、巨人軍の東西移動で、大津駅に列車が停車するたびに、
ホームに降り立ったそうです。
そこには母親が来ていて、短い時間(数分間)会い、別れを惜しんでいた姿を、
多くの巨人軍選手がおぼえているとのこと。
母ひとり、子ひとりだったのです。
昭和17年末、わずか1年ちょっとの巨人のユニフォームをぬいで、
広瀬は戦場に出ていった。
「フィリピンに行った」
という風の便りはあったが、ほかに、この天才少年だった広瀬習一に関する情報をきいたものはいない。
百メートル十一秒の「疾風」も、米軍の弾には勝てなかったのだろうか。
それとも山中で、むなしく餓死していったのだろうか。
何しろフィリピンにいた日本守備隊の数は62万5千8百人。
そして何とそのうち49万8千6百人は、戦死、ないし戦病死したのである。(235p)
お母さんはつらい思いをしただろうなあ。
広瀬習一さんについても、2009年に1冊の本が出ていることを知りました。
前投稿で紹介した石丸進一さんの本とともに、読んでみたくなりました。
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