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2012年4月

2012年4月21日 (土)

「きもちのこえ」(大越桂著)・・・脈で会話!

 

今日は4月21日。再スタートから8日目。

休んでいる時のメモを次々手直しして、投稿しています。

前投稿のつづきです。

大越桂さんのことを知ったのは、3月7日の朝日新聞朝刊でした。

   

大越さんの本「きもちのこえ」(毎日新聞社)が手に入ったので、読みました。

89
   

大越さんが19歳の時に書いた本です。

1年かかって書いた本と聞きました。

確かに、文中に書いてある彼女の書くスピードだと、さもありなんと思います。

よくぞこんなに書いたと驚きます。

彼女のような状態だから気づくこと、思うことがコマめに書かれていました。

そうかこう感じるんだ、こう思うんだと、よくわかりました。

   

大越さんは、ちゃんと聞こえているのに、聞こえていないと思われていました。

いろいろ考えているのに、考えていないと思われていました。

彼女の表現方法が限られていたからです。

ある日、横に付き添っていたお母さんが、発見します。

看護士さんが、呼吸器を調整しようとすると、大越さんの脈拍数が上がることがモニターで分かったのです。

大越さんが、表面上は眠った状態に見えても、聞こえていて、

ちゃんと反応していることに気づいたのです。

   

私が、眠った状態に見えても「意識は起きていることがある」ことを理解してもらえたおかげで、

状況は激変しました。

脈拍で会話ができるようになったのです。

たとえば、起きているか、眠っているかは、見た目にかかわらず話しかけて

確認してくれるようになりました。

そして、起きているときに、音楽をかけてくれるようになりました。

うるさいと感じる曲の時は「うるさい、うるさい、だめだめ」と

いやだオーラを出すと脈拍が少し上がり、

好きな曲だと「これはいいね!」と安心オーラになるおかげで、

脈が落ち着くのだそうです。(中略)

脈拍によるコミュニケーションは、細かいことまでは通じないけれど、

少なくとも「関わってもらえる可能性」が生まれた、そのことに意味がありました。 (122~123p)

   

自分の思いが伝わらない状態がずっと続いていた大越さん。

脈で伝わったことに感激しています。

こんなこと、今までの自分には想像もつかないことです。

   

ただ、「ジョニーは戦場へ行った」(小説・映画)を思い出しまた。

主人公が試みたことと共通します。

※参考:「Wikipedia ジョニーは戦場へ行った」F

   

次の投稿につづく。

 

 

初めて知った大越桂さん

  

今日は4月21日。再スタートから8日目。

   

3月7日の朝日新聞朝刊の「天声人語」です。

EPSON0903月7日天声人語
  

この文章を読んで、大越桂さん(23歳)のことを初めて知りました。

大越桂さんがどんな人か、次のサイトから引用します。

「NIYO NIYO Vol27 2007年秋号」htm・・・引用した文以外も読むことをお薦め

  

仙台市出身。重度の脳性まひで、13歳で気管切開し、声を失うが、

中等部1年のときに字を習い始める。2年生から詩の創作を始め、

通信を発行し、その冬の2004年12月にブログ「積乱雲」を作成。

創作は詩のほか、短歌、書などの分野に広がる。

   

インタビューで、「障害のこと、言葉を書くようになるまでを教えてください。」という

質問に次のように答えています。


「私は819グラムの、とても小さい未熟児で生まれました。

双子の姉がいましたが、出産のときに死にました。

私は脳性まひの障害を持っています。また未熟児網膜症で、強い弱視です。

そこまでは普通の障害でしたが、中学のときに気管切開をして、声が出なくなりました。

それまで、色々と耳で聞いて言葉は分かっていたけど、

伝えられなくなってストレスで吐き、とてもやせてしまいました。

肺炎などになって、小学校6年から中学3年の夏まで入院しました。

その入院中に気管切開をした後、養護学校の先生に字を書くことを習い始めました。

一年生から、あいうえおの練習をして、自由に書けるようになったのは2年生のときです。

初めは単語で用事を伝えていましたが、

段々、詩というか、おしゃべりとは違う作品をつくるのが面白くなりました」

   

表現手段が手に入ってよかったねと思います。

 しかし、いろいろな人がいます。

 こんな人生というか、生い立ちを経て、今にいたっている人がいるのですね。

うれしくなります。みんないろいろなんだ。いろいろなのが当然なんだ。

 大越さんの作品に触れたくなりました。

   

大越さんのブログはここ→「積乱雲」/   

 

 

 

 

「諦めない限り有効」の切符

  

今日は4月21日。再スタートから8日目。

   

こんな記事がありました。

釜石駅から「復興未来」ゆきの切符の販売の記事です。

3月11日に釜石駅前で発売されたそうです。

その切符の文面がいい。

T_TKY201203100163

http://www.asahi.com/national/update/0310/TKY201203100162.html  

   

諦めない限り有効」・・・何といい言葉だ。

    

youtubeでニュースも。

 

「神奈川沖波裏」の現場はどこ?

  

今日は4月21日。再スタートして8日目。

    

前投稿のつづき。

      

北斎 富嶽三十六景の旅 天才絵師が描いた風景を歩く」(平凡社)を利用。

図工の授業で使った絵の1枚。

EPSON087「神奈川沖波裏」

この絵は、「神奈川」とあるので、「神奈川県」が浮かんでいました。

したがって、神奈川県の南、相模湾海上から富士山を見た構図と思っていました。

でも違うようです。

ここで言う「神奈川」は、現在の横浜市神奈川区付近のことであり、

これは千葉県の木更津市と、東京湾を挟んで対岸にあります。

これが現場の地図です。

EPSON089波の説明
   

神奈川と木更津を結んだ海上から富士山方面を見た構図というわけです。

最初にイメージした場所とは大きく違いました。

  

   

さらに・・・

葛飾北斎は「冨嶽三十六景」の中で2枚、地元愛知県の絵を描いていました。

ひとつはこれ。

Img663fb1178g7l1o「尾州不二見原」

この絵の現場は、名古屋市です。

比較的有名な絵です。

作りかけの大きな樽の中に富士山を配した構図が恰好いい。

もう1枚は、隣の豊橋市が現場でした。

EPSON088豊橋の絵「東海道吉田」

この絵の説明を引用します。

吉田宿は東海道34番目の宿場で現在の豊橋。

そこに「不二見茶屋」という看板を掛けるほど、富士の絶景が見られる茶屋があったのだろう。

旅の女の2人は縁台に座って富士を眺め、茶屋の娘の説明に耳を傾ける。

富士は窓枠で切り取られ一幅の掛軸のように美しい。

駕籠かきの1人は草履を木槌で叩いている。

「お茶つけ」の看板の下に「根元吉田ほくち」とあるが、これは元祖吉田火口(ほくち)の意。

火口とは火打石の火を移し取るもので、当地の名物だった。 (44p)

   

「吉田火口」に興味あり。また調べてみよう。

  

豊橋市のどこであるかは、よくわかっていない模様。

豊橋市には富士見台という場所があります。

そこは高台になっていて、とても見晴らしのいいところです。ここかな。

北斎がすぐ近くの絵を描いていたのがうれしかったです。




「隅田川関屋の里」の現場はどこ?

 

今日は4月21日。再スタート8日目。

    

葛飾北斎の冨嶽三十六景の一つ「隅田川関屋の里」を以前授業で使いました。

無題

その時に、この絵が描かれた現場がどこか調べました。

図工の授業3・・・「冨嶽三十六景 隅田川関屋の里」.html

  

最近、いい本を見つけました。

「北斎 富嶽三十六景の旅 天才絵師が描いた風景を歩く」(平凡社)

51Zx-zf-fHL
   

この本で、現場がどこかわかります。

さっそく「隅田川関屋の里」の現場を調べました。

地図を転載します。

EPSON086場所の説明
   

この地図と、上記投稿の地図を比べてください。

ほぼ一致。

うれしくなりました。

篤姫が18歳まで過ごした場所

 

今日は4月21日。再スタートから8日目。

    

前投稿に引き続き、3月7日放映の「ザ今夜はヒストリー 篤姫」より。

こんな映像あり。

RIMG0596喜んで登校 
   

この小学校は、篤姫が子どものころ(18歳まで)に過ごした今和泉島津家館跡に建てられた小学校だそうです。

今和泉小学校のHPに、篤姫のことを解説しているところあり。

ここです→「指宿市立今和泉小学校 天璋院篤姫」htm

   

番組でも、ゆかりの井戸が紹介されていました。

RIMG0599井戸
   

大河ドラマ「篤姫」放映のおかげで、自分たちの学校により誇りをもっただろうなあ。

しかし、薩摩の中の指宿。南端です。

そこから将軍家に嫁入りして、薩摩に帰らなかった篤姫。

すごい人生だ。

 

   

小学校の校舎に掲げてあるスローガンがいいです。

喜んで登校 満足して下校

いいこと言うなあ。

子どもたちが毎日そう思ってくれたらいいな。

これは、教師に対するスローガンですね。   

篤姫は近衛家の養女になった

  

今日は4月21日。再スタートから8日目。

    

3月7日放映の「ザ・今夜はヒストリー」は篤姫の特集でした。

その時に、先に調べた「近衛家」が出てきました。

「藤原氏の正体」2 藤原五摂家の近衛html  

篤姫は薩摩藩島津家一門の娘として生まれました。

将軍家に嫁ぐにあたって、まず藩主島津斉彬の養女となり、

その後京都に出て、近衛家の養女になりました。

なぜか?

ヒストリーボードではこう説明されていました。

RIMG0600異例の結婚
   

前回勉強したこともあって、

ここに藤原氏が権力と関わるための策略を感じます。

   

でも今の世の中、どうなんだろう?

昭和天皇までは、藤原氏の流れをくんだ后を迎えていたそうです。

平成天皇の后は美智子妃。この方は藤原氏と系図に関係ない人です。

現在の皇太子も、奥さんは藤原氏に関係ない雅子さんです。

(そうだと思います。調べた限りでは・・)

現在の近衛家の当主は、近衛忠煇(このえ ただてる)さん。1939年生まれ。

国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)会長及び日本赤十字社社長。

奥さんは元皇族。

この方のお兄さんは79代総理大臣の細川護煕さん。

息子は近衛忠大(このえ ただひろ)さん。1970年生まれ。

奥さんは元皇族。

近衛家は天皇に近い存在だとは思いますが、

権力どうのこうのとは無縁のように思います。

でも、自分には無縁の世界だからよくわかりません。

   

   

ちなみに、徳川家には五摂家から嫁ぎましたが、

室町幕府の足利家には、藤原氏の流れの日野家から嫁いでいます。

2月22日の「ザ今夜はヒストリー 応仁の乱」では、

ヒストリーボードでその様子が示されました。

RIMG0601系図

「藤原氏の正体」3 日野氏も藤原氏の流れ.html   

 

映画「恋するトマト」・・・農業再び

 

今日は4月21日。再スタートから8日目。

  

映画「恋するトマト」を見ました。

2005年公開の映画。

RIMG05761仕事を辞める RIMG05781トマトを食べている

見た後に、映画について調べてわかったことですが、

主演の大地康雄さんが、平成3年に(1991年)にフィリピンを訪れた時に、

ここで映画を撮りたいと思い、年数をかけて実現した映画でした。

そのいきさつを、次のサイトが詳しいです。

「シネマ トピックス オンライン」96

大地さんの情熱があふれ出している映画でした。

   

厳しい現実が、映画の前半で、立て続けに主人公(大地康雄/農家の長男45歳)に襲いかかります。

フィリピンに渡り、あげくに結婚詐欺に引っ掛かり、

たくさんのお金を奪われた主人公は、フィリピンで浮浪者となります。

何もかも嫌になった主人公は、日本に帰らず、農業も捨てて、

金稼ぎに没頭します。

しかし、だんだん気づいてくるのです。

フィリピンの農家の人々との交流を通して、

農業の素晴らしさに。

そして主人公は、やっぱりもう一度農業をやると決心して日本に戻ります。

  

私の人生経験で、農業をやったのは、

40日間住み込みで高原野菜のアルバイトをやっただけです。

でもあの体験はよかった。

人の元になるものを作っているのはすごい仕事なんだと思いました。

農家の人たちが一番偉いと思ったし、

その時も胸を張って仕事をしていました。

   

引退したら、農業をやりたい。この気持ちはずっとあります。

土と水と太陽にまみれて、農業をやってみたいとあらためて思った映画です。

   

 

「藤原氏の正体」3 日野氏も藤原氏の流れ

  

今日は4月21日。再スタートから8日目。

   

投稿のつづき。

藤原氏の正体」(関裕二著/新潮文庫)より。

    

平安時代以後の藤原氏について・・・・

   

貴族社会が衰弱した中世、藤原氏の末裔は、新たな支配者に忍び寄っていく。

室町の足利将軍家には、藤原北家の末裔の日野氏が女人を送り込み、

姻戚関係を結んでいく。

第三代将軍足利義満以来九代将軍まで、室を入れ、

応仁の乱で名高い日野富子は第八代将軍足利義政の室であった。

江戸時代には、徳川将軍家とも姻戚を結んだ。

三代将軍家光の夫人は鷹司信房の娘、中の丸であり、

こののちも、将軍家と藤原氏の縁組みは続いた。

だからこそ、藤原氏の末裔は幕末にいたり、

幕府と反幕府勢力双方の橋渡し役を演じ、大きな発言力を持つにいたるのである。

また、彼らが築いた日本の官僚制度は、

江戸時代末期まで京都の朝廷に生き続け、

明治維新後の近代日本にも、大きな影を落としていく。

天皇を神といただき、「天皇のために」というスローガンによって近代日本は突き進んだ。

しかし、このような一神教的な天皇の持ち上げ方は、

本来の天皇の本質とかけ離れていて、またいっぽうで、

藤原氏が得意とする「天皇の利用法」であった。308-309p)

   

明治以後、太平洋戦争までの天皇崇拝は、ちょっと異常だと思っていました。

でもその雰囲気は藤原氏系の人たちには好都合だったのでしょう。

昭和天皇の后までは藤原氏系の方だったそうです。

しかし、平成天皇の美智子妃は藤原氏に関係がない人。

このことは、慣例を破る思ったより大きな変化だったようです。   

  

いやはや、藤原氏は興味深い。

 

「藤原氏の正体」2 藤原五摂家の近衛

   

今日は4月21日。再スタートして8日目。

     

前投稿のつづき。

藤原氏の正体」(関裕二著/新潮文庫)より。

  

藤原氏は「平安時代の人たち」というイメージですが、

そうとは限らないようです。

引用します。

   

藤原氏は中臣鎌足以来、つねに日本の頂点に君臨しつづけた。

しかも、それは、一貫して、「天皇家のため」ではなく、

自家の繁栄のためだったように思えてならない。

それは、この一族の生まれつきの習性であったようにも思えるのだ。

その習性、伝統は、古代から近代、現代にいたっても、まったく変わっていないのである。

そして、藤原氏にとって、「天皇」とは、

自家の繁栄を継続するための道具にすぎなかったのではなかったか。

じっさい、現代にいたっても、藤原氏は「天皇にもっとも近い一族」という立場を利用して、

目に見えない閨閥(けいばつ)を作り上げてしまっているのである。

そこでこのあたりの事情を、現代史に焦点を移してすこし説明しよう。56-57p)

   

現代も藤原氏の影響がある?興味津々で読み進めました。 

続きはこうなっています。

   

太平洋戦争の戦前戦中、三度総理大臣の座についた近衛文麿は、

昭和天皇に政務を上奏するとき、椅子に座り、足を組んだままで、涼しい顔をしていたという。

もちろん周囲の顰蹙を買ったが、このような不謹慎が許されるのにはわけがある。

近衛氏が藤原五摂家(ごせつけ)の筆頭だったからにほかならない。57p)

   

苗字は「近衛」でも、藤原氏と関係があった。

   

五摂家は七世紀の大物政治家・藤原不比等の4人の男子、

武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)のなかの、

房前の末裔、藤原北家(ほっけ)が5つの家に別れ(近衛、九条、二条、一条、鷹司)、

平安時代以来、明治にいたるまで、代々摂政と関白を輩出する一族として、

貴族社会の頂点に君臨してきたのである。57p)

   

鎌倉時代以後、武士の活躍で表だって見えませんでしたが、

藤原氏の勢力は、天皇の周りでちゃんと残っていたのです。 

   

いやいや、武士の中にも藤原氏の勢力は入ってきていました。(つづく)  

  

   

 

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