沢村栄治3.京都商業の場所/慶応の腰本監督
今日は4月26日。
前投稿のつづき。
「沢村栄治とその時代」(東京書籍)から引用。
京都商業の周辺には、妙心寺の塔頭が点在していた。
等持院、竜安寺なのど名刹もこの地域にあった。
京都の街は、静かな佇まいの中にあった。
栄治は、生まれ故郷の宇治山田と似た雰囲気を、この街に感じた。 (70p)
最近京都に行って、その時の宿「花園会館」については書きました。
上の文章を読んで、京都商業が妙心寺の近く、
つまり花園会館の近くだと知りました。
現在、京都商業とは言わずに、「京都学園高校」です。
地図で見ても、花園会館からはすぐのところです。
残念。もう少し早く知ったら、出向いて、沢村栄治さんの銅像も拝んだのになあ。
驚いたのは京都商業だった。慶応の監督が、沢村栄治を見たいと言って突然に訪れたのである。
しかも、高松に行く途中にわざわざ寄ってくれたのだという。
六大学の名監督にコーチしてもらえるという願ってもないチャンスに、
校長の辻本光楠をはじめ、野球部関係者は小躍りした。
校長の辻本光楠が、早々腰本(寿)をグランドに案内した。 (76p)
当時は、東京六大学野球が、野球ファンの心をつかんでいた時代。
そこの監督が、年に一度高松商業にコーチに行く列車の中で、
沢村栄治さんの記事を読んで途中下車。京都商業に現れました。
沢村栄治さんの投げる球を打つために、腰本監督はバッターボックスに入りました。
マウンドで栄治が振りかぶった。そして、最も得意とする真っすぐの速い球を投げ込んだ。
その瞬間、腰本は思わず腰を引いてしまった。
栄治の速球は、腰本の胸元をえぐるように食い込んできたのだった。
ストライクだった。腰本は、ごくっと唾をのみ込んだ。手には汗がにじんでいた。
「もう一球」
とマウンドの栄治に叫んだ。栄治は大きく振りかぶった。
腰本のバットが素早く回転した。しかし、栄治の球にはかすりもしなかった。
キャッチャーの千万石が、腰本の顔を見ながら微笑した。
そして、ボールを両手でゆっくりこねてから、栄治に返球した。
ついに、腰本は栄治の球に触れることができなかった。
沢村栄治というピッチャーを一目見たらすぐ高松に向かおう、
と考えていた腰本の予定が大幅に狂ってしまった。
栄治を見た腰本の京都での滞在が、三日、そして四日と延びていった。
京商関係者が恐る恐る腰本に、「高松の方はよろしいんやろか」と訊いた。
KEIOのユニフォームに着替え、グランドに立っていた腰本は、
「高松も大事だが、今はこの少年が私にとって一番大事なのです」
と言うと、栄治の肩をぽんとたたき白い歯を見せた。
腰本の頭の中は栄治のことで一杯だった。
朝7時から8時15分までの早朝練習、授業が終わる3時から6時過ぎまでの練習に、
それこそつきっきりで栄治を指導したのだった。 (77p)
結局、腰本監督は2週間滞在したそうです。
腰本監督に指導してもらったおかげで、足を高く上げる沢村さんの特徴的な投法を身につけ、
より速い球を投げられるようになりました。
沢村栄治さんは、腰本監督に感謝し、慶応大学でプレーをしたいと考え始めます。
しかし・・・(次の投稿につづく)
いっぱい道草さん
殆ど沢村投手のことはご存知の様ですが、彼のスピードは千葉茂、青田昇さん達も想像で、ああだこうだ言っていますが、スピードガンがあった訳でも無く判りません。
唯、千万石さんから直接聞いた話では、ボールがベース直前でワンバンドするかと思うと、そこからホップして来るのでミットにスポンジを入れておくと、ボールがはね返されるので、スポンジを全部抜き取ってしまったので、指がこんなに変形したのですと云われました。所謂、バッターからすると、ベース前からホップする嫌なボールです。しかし、数度の出兵で、当時の投手の多くが経験したように手榴弾の投げすぎで、沢村も殆ど使えない肩になり、6シーズン61勝22敗防御率1,74で最後まで面倒を見るという約束で入団した巨人を馘首されたのです。私は巨人ファンですが
湯口俊彦を自殺に追いやった首脳陣を好きになれないのです。
投稿: 村井英一 | 2013年10月15日 (火) 19:52
いっぱい道草さん
沢村栄治の生家は、うどん屋さんであまり裕福とは言えなかったと思います。一番下と思われる弟さんと子供の頃、家も近かったこともあり、1度だけ遊んだことがあります。夫人は、大阪の貿易商のお嬢様ですが、当時の沢村家には、矢張り巨人の契約や給料に魅力があって当然です。池井教授の卓話の一つに、「慶応にこなかった3人の大投手」というのがありますが、1に沢村2に別所毅彦、3に江川卓です。理由はそれぞれですが、長くなりますし、プライバシーもあり文字にするのは、憚りたいと思います。京都商業に進んだのは、京都にいた校長と親しかった沢村の叔父が、創立間もない校長が野球で学校の名を広めたいという希望に応える為、一肌脱いだらしいです。伊勢にはほかにも明倫小学校から東京の帝京商業に進み、スタルヒンの居た金星スターズで活躍した内藤幸三という左腕投手が居ましたが、なぜ伊勢に居たのかは判りません。
多分、内藤の名を知る人も伊勢にはもういないでしょう。
投稿: 村井英一 | 2013年10月15日 (火) 20:26
村井さん、沢村栄治に関する情報をいつもありがとうございます。
ブログにもまとめましたが、巨人が沢村を首にしたのは、
とても怒りを感じました。
湯口投手については、うっすらとしか覚えていなかったので、
いい機会だと思って調べました。
このようなことがあったのですね。
京都商業に移った経緯も本で読みました。
その本の作者は、叔父が沢村の運命を狂わせたといった書き方でした。
どうだったのでしょう。
慶応に来なかった3人の大投手。
なるほどと思って読みました。
投稿: いっぱい道草 | 2013年10月17日 (木) 06:03