「ラブ・パレード」の中の「ら」抜き言葉/テレビ金沢・塚田誉アナ
(前投稿のつづき)
「夜空ノムコウ」のように、流行歌に「ら」抜き言葉が入っていることは間々あるようです。
たとえばORANGE RANGEの「ラブ・パレード」。
心で君を抱きしめる 今は少しだけ愛を信じれる
心で君を見つめている そばにいるだけで 愛を感じれる
の2か所です。
YouTube: Orange Range - Love Parade 2005 05 25
せっかくいい歌だと思ったのに、
「ら」抜き言葉があって残念という声もいくつかありました。
気になる人は気になるようです。
「テレビ金沢」の次のサイトでは、
川村結花さんの曲「全身鏡」の「ら」抜き言葉に始まり、
塚田誉アナウンサーが「ら」抜き言葉について語っています。
とてもわかりやすい文章です。
「『見れる』『食べれる』について その3」https://www.tvkanazawa.co.jp/ana/tsukada/vol036.html
このサイトによると、
江戸時代後期から明治前期にかけて、
可能動詞が生まれたそうです。
「動かれる」「走られる」のように、
五段活用の動詞に助動詞「られる」をつけて可能の意味を表わさずに、
「動ける」「走れる」という新しい言い方(可能動詞)が生まれました。
そして「動かれる」「走られる」といった言い方はとても少なくなりました。
「はしられる」とうって、変換しても「走られる」は出てこないくらいです。
※参考:五段活用の活用例
・・・動かず(未然)・動きます(連用)・動く(終止)・動く時(連体)・動けば(仮定)・動け(命令)動こう(未然)
そして、昭和50年代から今、「ら」抜き言葉が出てきて、
五段活用以外の動詞も可能動詞の形になってきたそうです。
「見られる」が「見れる」に、
「来られる」が「来れる」という変化が出てきました。
江戸時代後期から明治前期のように、
「ら」抜き言葉が広がる可能性が高いようです。
塚田さんは次のようにまとめておられます。
私のように、「ら」抜き言葉をにわか勉強した者には届かない深い言葉です。
江戸時代のある時期、可能を示す助動詞「らるる」が「られる」に変わった。
明治にかけて、可能動詞というニューフェースが広まった。
そして、私たちは、再び変化しようとしている日本語の生の姿を、いま正に見ていることになる。
これは一時期の流行語ではなく、言葉の構造が根本的に変化するという現象である。
自分が、たまたま日本語の歴史の節目に生き合わせた。そんな感慨とともに、日本語という言葉に一層の愛着を感じる。
これまで何度の変遷をたどったことだろう。その度にどんな世論が起こっただろう。人々はどんな思いで新しい表現を使っただろう。
「ら抜き」を悪役と決めつけてはならない。世の中の姿を映すドラマや歌で「ら抜き」が使われるのは、むしろ自然なこととさえ言える。
日本語は生きているのだ。
以上のことを考えると、なおさら、私は「ら抜き」は使いたくない。
ただでさえテレビ・ラジオで広範囲に情報が伝わる時代である。
アナウンサーは、言葉を率先して変化させる立場ではなく、むしろ言葉に対して保守的であるべきだ。
私は日本語が好きであり、たまたまアナウンサーである。
最後の一人になっても、私は「ら」を入れてしゃべりたい。
次のサイトも一緒に読むと勉強になります。
「『見れる』『食べれる』について その1」http://www.tvkanazawa.co.jp/ana/tsukada/vol034.html
「『見れる』『食べれる』について その2」http://www.tvkanazawa.co.jp/ana/tsukada/vol035.html
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