「鍛え・育てる」抜粋その2 力量を上げるための自己鍛練
「自身の持つパワーを、正しい方向で『外』に発揮させる」ことを深澤先生は目指しています。
そのための導入的・第一関門的行為として、深澤先生は2つの視点で子どもたちを見ます。
・挨拶への立候補
・はっきりした返事
この指導について書いた87~89pの文章は迫力があり、読むと気持ちが高まる。
ここに抜き出す。たくさんです。
その時々の子どもたちの“到達”に応じて、様々な手法を試してきた。
ほとんどの子どもたちは立候補するようになったがある子には全く通用しない。
こんな事は山のようにあった。
その度に、帰宅してから再び”戦術”を練る。孤独な”自己鍛練作業”である。
たかが、「挨拶できる人?」に対して全員に「ハイ!」と立候補させるだけの教育活動である。
だが、私にとっては(中略)、自身の持つパワーを正しい方向で「外」に発揮させるとういう
【哲学】に基づく導入的・第一関門的行為である。
それほど重要なのだ。
だからこのように、いろいろ考え・いろいろ行ってきた。
その結果、以前は一ヶ月程かかっていた「全員が挨拶に立候補する」状態を
二~三日間で”生み出す”ことができるようになってきた。
数えたことはないが、私の頭の中に「挨拶に立候補させる」という“タンス”があり、
その“タンス”には数十の手法が”引き出し”として蓄積・整理されている感じだ。
すると、リアルタイムで「次の手」が打てるようになる。
アドリブ的指導ができるようになる。
到達させたい行為像に向けた教育活動展開中、当初用意していた手法が思ったように通じない時、
瞬時に効果的な「次の手」を打てるか。これが教師の力量を計る一つの尺度である。
特定の一手法を絶対視し、信望する教師は、その一手法を知り・使えるようになった段階で満足する。
それ以外の手法を知ろうともしないし、ましてや、自身で新たな手法を創出しようとも考えない。
こうした教師は、その手法が通用しない場面に遭遇した時点でオシマイになる。
何もできない。
「次の手」がないのだから、当然である。
いろいろやって子どもたちがやらないからあきらめよう。
こう考えた教師は、その後挨拶へ立候補させる指導を子どもたちに行わなくなる。
子どもたちに対して挨拶への立候補を“要求”しなくなる。
やればできる事をしていない状態を“見逃す“教師を、
鍛えられていない子どもたちはたまに「優しい先生」と呼ぶ。
子どもたちが何と言おうが勝手なのだが、
実はこう考えた瞬間、その教師は子どもたちに“敗北”したのだ。
同時に、子どもたちの持つ力を見切ったのだ。
「こいつらはダメだ」と子どもたちを見捨てた事に他ならない。
これが「優しい教師」か?
否!
力量ナキ「甘い教師」に過ぎない。
「優しい教師」とは、子どもたちの近未来を考えた上で
「これだけは絶対に身につけさせたい力」を定め・
妥協することなく指導し・その「力」を身につけさせていく教師である。
個々の子の“到達”は異なっている。
だから、多くの子にとっては実に簡単なのだが、
ある子にとっては教師が想定する以上に困難そうな場合もある。
“到達”の低い子にほど“負荷”がかかる。
ここで、教師の目指す具体的行為像を低レベルに引き下げてはならない。
できない子がいた場合は、教師自身の力量がまだまだと考え、
行為像レベルを下げるのではなく、
自身の力量を上げるための自己鍛練をすることだ。
叱咤激励される文です。新しい学期を前に読んで気合いを入れたい文です。
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