本「余命一年、男をかう」を読みました
今日は令和5年4月5日。
今日は初めての午前11時出勤。
先の記事で書いたように、午前中を上手に過ごしたい。
この本を読みました。
「余命一年、男をかう」(吉川トリコ著/講談社)
子宮がんと診断され、余命1年と言われて、
良かったと思う主人公の気持ちは、
いまいち共感できませんでした。
しかし、本の後半で、その底には、本当は生きたいという
気持ちがあったことを知って、
人間の気持ちは複雑だなあと思いました。
その気持ちが出現したのが、
ひょんなことから付き合うようになった、
年下のピンク色の髪の毛のホストの男性に、
死ぬなあと叫ばれた時でした。
主人公は、1人鎮痛剤を飲んでも取れない痛みと、
一人戦っている時に、駆けつけた男性に言われました。
いい場面でした。
引用します。
一日分の食器と弁当箱をまとめて食洗器にかけ、風呂に入って髪を
乾かしたあとは自由だ。あったかいお茶を入れ、吹替でアメリカの
シットコムかイギリスの時代劇(コスチュームプレイ)でも流しな
がらキルトを縫う。三時間おきに石油ファンヒーターが自動消火の
合図を送ってくるのでそのたびに延長ボタンを押す。
万が一、孤独死したときのために暖房器具の類はタイマーで切れる
ように設定してあった。それとは逆に、真夏の就寝時には切タイマ
ーと入タイマー二段使いが必須である。そうすれば遺体が腐るのを
多少遅らせることができる。
遺体を最初に発見する人にも検死を行う人にもマンションの管理人
にも葬儀社の人にもクリーニング業者にも、それからなんといって
もマンションを相続し、処分するなりなんなりしなければならない
家族にもーーーーだれにも迷惑をかけたくないと思うあまり、余命
宣告を受けるずっと前から心がけていることだった。「困ったとき
はおたがいさま」なんて言葉は私の辞書には存在しない。自分のこ
とは死んでも自分で面倒を見る。以上。解散。
(115p)
一人暮らしだとこんなことを考えるのかあ。
でも一人暮らしをするとこんなことを考えそうでなと思いました。
シットコム=
古くからのドラマ好きには馴染みがあるであろう、この「シットコム」。
2000年代以降生まれの若い人は、あまりよく分からない人も多いので
はないだろうか。
「シットコム」とは、「シチュエーション・コメディ(situation co
medy)」の略で、直接的な意味としては、状況設定(シチュエーショ
ン)が笑いの要素の軸となっている喜劇作品(コメディ)のことを指す。
コメディジャンルの一つで、激しい動きのドタバタを楽しむ「スラップ
スティック・コメディ」とは対極的な作風と言えるだろう。
全財産をあげるから死ぬまでそばにいてと、唯は俺に資産総額を提
示した。夜職でもなければバリキャリでもない四十一歳の事務員が
どうやったらそんだけ貯められるんだとぎょっとするするような金
額。おまけにもうすぐローンが完済するマンションまでついてくる。
これ以上誠実なプロポーズはないと自信満々に言ってのける唯に、
またしてもとんでもない独自理論を出してきたなと最初こそ面食ら
ったものの、よくよく考えたらたしかに金目当てで結婚することの
なにが悪いのか、納得に足る理由が見つからなかった。当人同士が
了承済みなら、そんなのそいつらの勝手じゃねえすか。
たとえ唯のことを愛していたとしても、映画に出てくるような夢の
男たちのように振るまうことは俺にはできないだろう。
だけど、そこに金銭が発生するならやれると思った。あの書き割り
みたいに人間みのない恋人役を完璧にやってのけるつもりでいた。
それが愛より劣る行為だなんて俺には思わない。
(183p)
そうだね、お互いに了承済みならOKです。
でも金の切れ目が縁の切れ目と言う不安は怖いですね。
「十年でも二十年でも俺がつきあうよ。唯が死ぬまでいっしょに生
きる」
すこやかなるときもやめるときもと誓うとき、具体的に「やめると
き」のことを思い描ける人間がどれだけいるんだろう。幸せの絶頂
にいる人たちの想像する「やめるとき」なんてたかが知れている。
しあわせの絶頂にいる人たちの想像する「やめるとき」なんてたか
が知れている。だからみんなけっこうな頻度で離婚するんだろう。
そこへくると俺たちは、低値からスタートしてるからたいていの
ことならイケる気がした。
(298~299p)
そうですね。
この宣言の中の「やめるとき」は甘く見ているだろうな。
長く生きているといろんなことがある。長生きは最高のエンターテ
イメントであり偉業だ。
(302p)
そうなんです。
やっぱり長生きして、いろいろな体験をして死にたいです。
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