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2022年3月28日 (月)

「疑惑 JAL123便墜落事故」③ 事故後8年で十分「疑惑」はあった

    

今日は令和4年3月28日。

   

前記事に引き続き、

「疑惑 JAL123便墜落事故

 このままでは520柱は瞑(ねむ)れない」

(角田四郎著/早稲田出版)

より引用します。

   

  

「準備されていた群馬側」という章で、

早い段階で棺が大量に発注されて、

群馬県側の藤岡市に運ばれていたことが書かれています。

まだニュースでは、墜落場所は長野県だと言われていた時に。

長野県だというニュースはガセネタ(ニセ情報)であって、

故意だったと書いています。

   

ああ、たくさん引用したいのですが、

時間が足りません。

ただ言えることは、私が昨年夏から知ったことのほとんどは、

事故から8年後に書かれたこの本に書いてあるし、

著者は「大きな力」にまで推理しています。

青山透子さんが証明した火炎放射器に関することが

ないだけと考えてもいいかも。

まさか火炎放射器で焼きはらったなど、

普通では考えられないことです。

    

これはあくまで想像の上の話である。日航機の尾部にもし標的機が

ひっかかっていたりすれば、そして追尾した自衛隊のジェット機が

それを目撃し報告したものとすれば・・・・。

(326p)

   

私が読んできた本にこのことは書いてありました。

小田周二さんの本にはしっかり書かれていました。

  

日航操縦士の言葉です。

  

芦沢 私たち日航乗員組合は、毎年、報道関係の方々に声をかけて

記者会見を行ないます。終始一環して事故調査委員会の「隔壁説」

は百パーセントあり得ないと主張して来ました。残念なことに、新

聞、テレビ、雑誌いずれもがまったく取り上げてくれません。まっ

たく無視されるのです。聞けば、もうあの事故には関わりあうな、

と会社から圧力をかけられているという・・・。

(346p)

     

なぜマスコミは取り上げないのだろう。

事故後8年後でさえそうでした。

現在はどうなのだろう。もう真相はわかっていると思います。

  

  

ほかの飛行物体が日航機に衝突したとすれば、私は標的機説を最有

力視する。

(365p)

   

事故後8年での著者の結論です。

私も賛成です。

  

  

私はこの自衛隊機が日航機を誘導していたに違いないと考えている。

(389p)

  

日航機を追尾していた2機の戦闘機のことです。

事故後8年での著者の考えに、私も賛成します。

戦闘機と交信した様子が、ボイスレコーダーに残っているはずです。

だからボイスレコーダーの公開は必要なのです。

そしてフライトレコーダーもです。

事故調が発表した日航機の航跡は、あやしいのです。

この本を読んで教えてもらいました。

  

   

引用はここまでにします。

事故後8年でここまで迫っていた本がありました。

  

  

   

コメント

思ったままに情報をコントロールしたとしたらとても恐ろしいことですね。
半年で日航機関係の本をたくさん読まれましたね。

日航機関係の本を読むようになったのは、
ハマコウさんがきっかけをくれたからです。
疑いもしなかった「隔壁破壊説」
いまはそんなことはあり得ないと
考えが変わりました。
真相が明らかになる日に立ち会いたいです。

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