「浪人若さま新見左近 日光身代わり旅」読破/家宣を主人公にした時代小説
今日は令和4年2月9日。
この本を読みました。
「浪人若さま新見左近 日光身代わり旅」
(佐々木裕一著/コスミック・時代文庫)
1月に徳川将軍15人を覚える基礎学力テストを実施しました。
関連して、いろいろ15人の将軍について調べました。
その中で、面白いと思ったのが、この「浪人若さま新見左近」
シリーズです。
何と、新見左近というのは、6代目将軍徳川家宣の若い時という
設定なのです。
4pから引用します。
徳川家宣 江戸幕府六代将軍
寛文二年(1662年)~正徳二年(1712年)
第四代将軍徳川家綱の弟綱重(甲府藩主)の長男として根津藩邸で
生まれる。綱重が身分が低い女中に産ませた子であったため、重臣
の新見左近を名乗り、養子として育てられる。
他に男子に恵まれなかった父綱重の世継として、九歳のときに呼び
戻される。
元服して名を徳川綱豊と改め、十七歳で甲府藩主となる。間もなく、
五代将軍候補となるが、家綱の弟綱吉も候補にあがり、最終的に徳
川綱吉が将軍になった。四十三歳のときに名を家宣に改めて江戸城
西の丸に入り、宝永六年(1709年)四十八歳で第六代将軍に就
任する。
心優しい家宣は、綱吉が定めた悪評高い「生類憐みの令」を廃止し、
罪に問われていた約八千人を救った。また、幕府から切腹を命じら
れた家臣を、それまでの功績を称えて流罪に減刑するなどもしてい
る。江戸庶民からも人気が高く、歴代将軍の中でも名君と謳われた。
(4p)
☝ ここでも勉強ができます。
引用します。
身分の低い26歳の女中・お保良(長昌院)に生ませた子であった
ため、世間を憚って家臣の新見正信に預けられ、養子として新見左
近を名乗った。
ちゃんと新見左近です。
お保良は家宣を生んだ2年後に死去しています。
慈悲深いことで知られた。『徳川実紀』は「仁慈の心あり」と評し
ている。父・綱重から世子として呼び戻された際、綱豊付の家臣と
して新見正信、太田正成、島田時之らを付された。新見は綱豊の育
ての父であり、さらに養父であったことから綱豊の信任が厚く、そ
れを嫉妬した太田・島田らが幕府側に対して「左近は早世しており、
新見が自らの子を左近として擁立した」と偽って讒訴(ざんそ)し
た。これが事実無根と知れると、両名は幕府から切腹を命じられた
が、綱豊は「一時とはいえ、自分のために仕えてくれた家臣を助け
てほしい」と助命を嘆願し、流罪に減刑された。
4pで引用した出来事はこのことですね。
しかし、嫉妬が強いためか、すごいことを言ったのだなと驚きました。
死因は、当時流行した感冒(インフルエンザ)とみられている。
※ここでも道草 「徳川15人の将軍たち」① (2022年1月22日投稿)
☝ この本にも、家宣の死はインフルエンザと書いてありました。
すっかり忘れていました。
51歳で亡くなりました。
復習。
史実にのっとり、想像力を働かせて、こんな小説を考えてしまう。
時代劇ドラマを見る感じで読まさせてもらいました。
六代将軍家宣はしっかり記憶されたと思いたい。
コメント