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2022年1月22日 (土)

「徳川15人の将軍たち」① 吉宗は「米将軍」と呼ばれていた

     

今日は令和4年1月22日。

     

この本を読みました。

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「徳川15人の将軍たち」

(小沢章友著/森川泉絵/集英社みらい文庫)

  

来週の月曜日に基礎学力テストがあります。

徳川15人の将軍を正確に書けるかのテストです。

ここでも道草 Co.慶応さんのラップで15人の将軍の名前を覚えさせたい(2022年1月17日投稿)

そのテストを作成する前に、この本は読んでおきたいと思い、

実行しました。

15人の将軍がどんな人だったのか、

その人が将軍の時にどんなことがあったのかなど、

あらましを知ることができました。

  

お江は、秀忠より六つ年上だったが、お市ゆずりの、きゃしゃな姿

で、うつくしい顔をしていた。しかし、性格はかなりきつくて、秀

忠にたいしてはやきもちやきだった。

「そなた以外は、妻はもたぬ」

秀忠は、側室をもつことをいやがるお江に、そう約束した。

このために、お静という女中とのあいだに生まれた男の子、のちの

会津藩主、保科正之をかくしとおし、お江が死ぬまで、正之とは、

対面しなかった。

(47p)

   

保科正之に関しては、こんなエピソードがあったのですね。

  

秀忠がやったこと。

  

家康がつくった尾張徳川家、水戸徳川家にくわえて、紀伊徳川家を

つくり、御三家体制をととのえた。

(54p) 

  

御三家が整ったのは、秀忠の時代だったのですね。

1月15日に放映された「ブラタモリ」は和歌山編。

なぜ和歌山に御三家が置かれたかがテーマ。

録画してあるけどまだ見ていない。

なぜ和歌山だったのだろう。気になります。

近いうちに見ます。

  

  

竹千代(家光)をまもろう、乳母のお福、のちの春日局は決意した。

お福は、信長を殺した明智光秀の家老、斎藤利三のむすめだった。

(61p) 

  

そうでした、復習。

  

  

慶安4年(1651年)、父の家光は死のまぎわ、異母弟にあたる

会津藩主の保科正之を呼んだ。

「くれぐれも、宗家(家綱)をたのむ」

まだおさない家綱を後見してくれるように、家光はたのんだ。

「わかりました」

正之は涙ぐんで、うなずいた。

会津藩は、このときのことをわすれず、幕末にいたるまで忠実に徳

川家につかえることになった。

(77p)

  

  

復習、復習。

  

  

家綱の時代。

  

明暦三年(1657年)、江戸を火の海がおそった。

本郷の本妙寺で、むすめの供養にと、火にくべられた振袖が風にあ

おられて、本堂へ落下してまたたくまに燃えあがったのである。

「振袖火事」と呼ばれた、この大火で、焼けたのは四百町、大名屋

敷が百六十、旗本屋敷が七百七十で、死者は十万人におよんだ。

江戸城にも飛び火し、天守閣が焼失し、本丸と二の丸も焼けた。

(80p)

   

最近調べた「今日は何の日」で、

振袖火事は1月18日のことだとありました。

今日は何の日 毎日が記念日 1月18日

つながった。

  

つづきです。

  

その年の九月、明暦の大火で燃えた江戸城本丸が建てなおされた。

しかし、天守閣は再建されなかった。

「物見の用しかない天守は時代遅れであります。たいせつな金銀は、

城下の復興に使うべきでしょう」

叔父の保科正之が、そう提言したからである。

(82p)  

   

なるほど、なるほど。

  

  

赤穂浪士たちをどうすべきか、綱吉はこまった。

江戸の庶民たちの人気と、柳沢吉保の主張する「浪士たちは切腹さ

せるべきだ」という意見のあいだでゆれたあと、ひと月半のちに、

浪士全員の切腹を命じた。

(96p)

  

「忠臣蔵」は綱吉の時代でしたね。

柳沢吉保の名前も久々に聞きました。

1975年の大河ドラマ「元禄太平記」の石坂浩二演じる

柳沢吉保が印象に残っています。

   

  

宝永六年(1709年)、綱吉は死のまぎわに、家宣を呼んだ。

「よいか、家宣。生類憐れみの令は、自分が死んでも、なお百年は

つづけるようにするのだぞ」

綱吉は、家宣にせつせつと言った。

「よいな、わかったな」

「わかりました」

家宣はそのときは、おとなしくうなずいた。

綱吉が死んだあと、家宣は四十八歳で、第六代将軍となった。歴代

将軍のうち、最年長の即位だった。

苦労して将軍となった家宣は、「君子仁厚(くんしじんこう)」を

かかげて、善政をしこうとつとめた。

まず、手をつけたのが、庶民を苦しめつづけた「生類憐れみの令」

を廃止することだった。

綱吉が死んだ七日後に、「大赦令」を発したのである。

「生類憐れみの令は、廃止する」

これにより、犬を虐待したとして、牢獄につながれていた八千六百

人が解放された。

(102~103p)  

     

このエピソードは、生徒にも教えました。

  

  

こうして家宣の時代は、「正徳の治」と呼ばれ、江戸庶民たちによ

ろこばれたが、その在位はたった三年と短かった。

君主は慈悲深くあらねばならぬと考え、善政をしいた家宣は、正徳

二年(1712年)、インフルエンザにかかって死亡した。

五十一歳だった。

(104~105p)

   

今回のテストの準備で、一番興味をもったのは、

この6代将軍家宣でしょう。

この人を主人公にした小説を読みたくなりました。

  

   

吉宗の時代。

  

「享保の改革」をおしすすめた。

それは、経費節減と倹約が基本だった。

吉宗はみずから着衣を木綿にして、食事は、紀伊藩のときと同じく、

朝夕二回、献立は一汁三菜の玄米と野菜中心の食事にした。

(125~126p)

  

綱吉の時代に、一日三食が始まったと、先日生徒に教えたばかり。

吉宗の時に二食に戻ったのですね。

  

  

「うぬ、幕府の方針にたてつくとは、ゆるさぬ」

元文四年(1739年)、吉宗は、(尾張の)宗春に隠居・謹慎を

命じた。

とりつぶしをおそれた尾張藩は、幕府にしたがう気持ちをあらわす

ために、幕末にいたるまで、宗春の墓には金網をかぶせた。

(129~130p)

   

なるほど、なるほど。

  

  

だが、順調だった「享保の改革」も、しだいに、かげりがみえてきた。

新田開発によって、米がたくさんとれすぎて、あまってしまい、値が

急落したのだ。米によって俸禄(給料)をえていた武士の暮らしは、

苦しくなった。

「これはいかん」

幕府は米を買いあげて、米の値段を調整しようとしたが、今度はいな

ごの大群が発生し、ききんがおとずれ、米の値段が急騰した。

あわてて、幕府は米をかきあつめようとしたが、つぎの年には、また

米あまりで、値が急落した。

このように、吉宗の治世の後半は、米にふりまわされたため、「米将

軍」と呼ばれた。

(131p)

   

そんなこともあったのですね。

  

  

家重の時代。

  

この「宝暦事件」こそは、百年後に徳川幕府をたおすことになる「尊

王思想」のはじまりといえた。

(140p)

  

初めて知った事件。

1758年のこと。

  

  

家治は、吉宗が期待したような、側近まかせにしない、みずからの強

い指導力で、まつりごとをひっぱっていく将軍になるかと思われたが、

そうはならなかった。

父の家重が、死のまぎわに、遺言したのだ。

「よいか。主殿(田沼意次)を重用するようにな」

意次は、十六歳で家重の小姓になってから、とんとん拍子に出世し、

宝暦八年(1758年)には一万石の大名となり、二十七年間、家重

をささえてきた側近だった。

「ならば、父の言葉どおり、しばらくは主殿にまかせようか」

家治は、好きな将棋や絵画にうちこんで、政治のことは、もっぱら意

次にまかせることにした。

(145~146p)

  

田沼意次は家治の時代だと思っていましたが、

家重の時代も活躍した人だったのですね。

  

  

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