通算7700本目の投稿/「幕末まらそん侍」読破
今日は令和3年7月4日。
映画「サムライマラソン」の原作本を読みました。
「幕末まらそん侍」(土橋章宏著/角川春樹事務所)
この原作からあの映画はできたのですね。
確かに、刺客が藩主を襲うシーンが、
原作には出てくるけど、最後の5ページほど。
映画ではその部分が拡大した感じ。
エンターテイメントとしての映画としては、
それも仕方がないのだろうか。
映画にそれでもあえて文句をつけるなら、
無用な殺生が多すぎるように思えました。
映画のネタバレがあるので、以下は注意です。
雪姫が恩情をかけて、自分の着物を与えた者を、
問答無用に切り捨ててしまうところ。
原作にはないシーンであり、必要はなかったと思う。
乱心を疑われた藩主を、刺客が狙うのは少しはわかるけど、
マラソンをしている藩士や、
関所を守る役人をも殺すのはどうかと思う。
時々思うのですが、実際にはできっこないのですが、
私が脚本を書いた方がいい映画になったと思います。
もっとこの小説の逸話を表に出した方が良かったです。
引用します。
又衛門は伊助の立ち方や呼吸法、手足に肉置きをつける鍛錬をした。
走り続けるうちに伊助の足の裏に肉刺(まめ)ができ、それがつぶ
れ、また新たな皮がはってくる。
(植えたてのきゅうりのようにすくすく育つわい)
又衛門は日々見違えるように力をつけていく伊助に目を細めた。鍛
錬でどんなに疲れ果てても翌日にはすっきりして新たな力が漲(み
なぎ)っている。そんな伊助の若さがまぶしかった。
(勘兵衛はよい息子を残したものだ)
又衛門はいつしか伊助が自分の息子のようにも感じるようになった。
厚かましい考えだ。しかし少なくとも自分の力を少しでも伊助の中
に残してやれれば自分は無にならない。そんな風にも思えた。
(190~191p)
旧友の息子に走る手ほどきをする又衛門。
教えることで、自分は無にならないという発想は
教師と同じだなと思いました。
又衛門は、かつて貧しい農民に恩情をかけたことがきっかけで、
さらなる恩情を要求されて、
窮地に立ち、奥さんを亡くす体験をします。
その体験から、人には優しくしてはならないと思っていました。
そのことに対して伊助から言われます。
(伊助)「私は先生がお人好しで良かったと思います」
(又衛門)「なに?」
「父が死に、これからどうなることかと私も母も心細かったのです。
しかし先生が助けてくれました」
妻が死に、ぼんやりしていたところで手慰みに伊助に走り方を教え
ただけだった。むしろ家に招かれ、家族の温かみを思い出した自分
の方がありがたいくらいである。
「先生は先程おっしゃいました。世に出れば、敵もいるが味方もい
ると」
「ふむ」
「私は思うのですが・・・、人に優しくしたときに、裏切られるこ
ともあれば、そうでないときもあるのではないでしょうか」
「む・・・」
「少なくとも私は助かりました」
(212~213p)
人に優しくすることを貫き通すことは難しいことです。
結果的に良いこともあれば悪いことのあると認識していないと
いけないと思います。
功罪あるけど、自分は優しくすることを通すなら、
覚悟をしようと言われているような文章でした。
以上で引用終了。
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