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2021年5月22日 (土)

「ぼくもいくさに征くのだけれど」② 写真「出征前日の竹内浩三」

   

今日は令和3年5月22日。   

  

前記事に引き続き、

「ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死」

(稲泉連著/中央公論新社)

より引用します。

  

入営を直前に控えて、浩三は仲間との別れの風景も詩にしている。

  

みんなして酒をのんだ

新宿は、雨であった

雨にきづかないふりして

ぼくたちはのみあるいた

やがて、飲むのもお終いになった

街角にくるたびに

なかまがへっていった

  

ぼくたちはすぐにいくさに行くので

いまわかれたら

今度あうのはいつのことか

雨の中へ、ひとりずつ消えてゆくなかま

おい、もう一度、顔みせてくれ

雨の中でわらっていた

そして、みえなくなった(『戦死やあわれ』岩波現代文庫)

(100~101p)

  

この詩で表された切ない気持ちは共感できます。

10年間勤務した学校を去った時の送別会を思い出します。

  

 

浩三がいつものように東京からの夜行列車「伊勢号」に乗って帰っ

てきたのは、入隊日の前日の朝のことだった。

自宅へ帰ってきた浩三はサージの学生服に角帽という姿で、背中に

は東京から持ってきた荷物を背負っていた。そこには「行きたくな

いんだよ」というような様子はすでになく、いつもと同じ飄々とし

た雰囲気の弟がいた。

「ただいま」と浩三が言うやいなや、これまで腹をたてずにいたこ

う(姉)の口からは、まず文句が出た。

「何だかギリギリの時間に帰ったのね。何にもできないやないの」

しかし、浩三はふんと鼻で笑うだけで、何も言わずに黙っていた。

そんな彼の姿を見ながら、写真を撮ろう、と彼女は思った。

本当はそんなことを思う必要などないはずだった。入隊といっても、

弟が行くのは津の久居にある部隊なのだ。これから、何度だって会

うことはできる。写真だって何度でも撮る機会はあるはずだった。

(中略)

ただ、「いまから、弟が出征していくんだ」という思いが、強く胸

の底から湧きあがってきた。その記念すべき日を、写真に残してお

きたい。

「そんなもん、撮らなくても・・・」

浩三は不満そうに言った。

「まあ、まあ、撮っときましょ。記念だから」

「・・・そんなもの、行かなくてもいいやないか」

浩三はあまり気乗りしないようだった。しかし、こうも譲らない。

「言うこと聞いて行ってよ」

そんなやり取りの後、彼女はふたりの娘と浩三を引っ張るようにし

て、女学校の卒業写真を撮った外宮近くの写真館へと向かった。

写真はいまもある。

その瞬間が焼き付けられた一葉には、向かって右側に次女を抱いた

松島さん(姉)、真ん中に学生服姿の浩三、左側に長女がちょこん

と座っている。縞模様の着物を着て髪をなで上げた松島さんにおか

っぱ頭の娘ふたりーーー浩三を除いた三人の視線は少し斜めを向い

ていて、カメラの向こう側にある何かを見ている。そんななかで、

背が高くなで肩の浩三だけが、口をへの字に結んでこちら側をまっ

すぐ見つめている。

(102~104p)

   

この写真は、巻頭に載せられていました。

最初から気になっていた写真でしたが、

この文章を読んだことで、手元にとっておきたい写真となりました。

転載します。

Epson005

  

竹内浩三さんは大正10年(1921年)5月12日生まれです。

今年生誕100年。生誕地伊勢市ではイベントが行われるとのこと。

亡くなった日も印象に残っています。

  

昭和二十年四月九日時刻不明比島バギオ北方一〇五二高地に於て

戦死せられましたから御知らせ致します

 

戦死広報は、竹内家の留守担当者だった叔父の大岩象三郎宛に届け

られたものだった。

(134p)

  

私の誕生日は4月9日。

私が生まれたたった16年前に、竹内浩三さんは亡くなっていました。

同じ日であることで、印象に残ったのです。

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