「ビキニ事件の真実」① あまりに知らなかったビキニ事件
今日は令和3年4月10日。
※ここでも道草 「ビキニ事件の真実」読破/目が覚めたら還暦かあ(2021年4月8日投稿)
☝ この時に読み終えた
「ビキニ事件の真実 いのちの岐路で」(大石又七著/みすず書房)
より引用。
夢の島は名前とは裏腹で、以前は広大な東京のゴミ捨て場だった。
そして山のように積まれた大量のゴミにカモメが群がり、ハエの
大群が発生して悪臭を放ち、近寄ることができなかった。ハエや
悪臭は近くの団地を襲い、住民は困惑を極めていた、そんな話は
うそのように、今はきれいな公園に整備され、競技場や野球場、
ごみ焼却場の熱を利用した温水プール、熱帯植物園などが作られ、
水路には立派なアリーナもできて、見違えるようになっている。
当時はその水路が、船の墓場になっていた。
そしてそこに、第五福竜丸が名前も「はやぶさ丸」と変えられ、
捨てられていたのだ。原水爆禁止を願う市民の一心が、美濃部革
新都政を動かし、1976(昭和51)年、沈みかかったその船
を陸に引き揚げて屋根を覆い、第五福竜丸展示館を作ったのであ
る。
(1~2p)
第五福竜丸の船の歴史にも興味があったので、
この本はよかったです。
第五福竜丸はずっと第五福竜丸だったわけではなく、
できた時には違う名前だったことをこの本で知りました。
そして第五福竜丸として体験したことと、
第五福竜丸ではなくなった後のことも書いてありました。
最後は第五福竜丸という船名にもどり、現在は展示館にあります。
この本をきっかけに第五福竜丸の詳細な船の歴史をまとめてみたい。
1954(昭和29)年3月1日。アメリカ軍は極秘のうちに、太
平洋の真ん中にあるマーシャル諸島・ビキニ環礁で核実験を行った。
それは広島型原爆の1000倍、15メガトンというけたはずれの
水爆実験だった。そして大気圏や太平洋上に大量の「死の灰」をま
き散らし、世界中を驚かせた。その大事件を発覚させたのが、ビキ
ニ海域でマグロ漁をしていた俺たち第五福竜丸だった。
爆心地から160キロも離れていたのに、真っ白な「死の灰」は船
上に雪のように降り注ぎ、デッキの上に足跡をつけた。不審に思っ
て持ち帰った灰の中には、強力な放射能とアメリカ軍の最高軍事機
密である水素爆弾の構造までが含まれていた。
この水爆は、重水素化リチウムを用いた「汚い三F水爆」といわれ、
中にはこの地球上には存在しない、ウラン237という恐ろしい放
射性物質も含まれていた。
降りはじめの放射線は毎時15レントゲンから20レントゲンで、
広島原爆の爆心地から800メートルぐらいの所の量ということだ。
その放射能を14日間受けつづけ、俺たちが受けた総放射線量は、
およそ250から330レントゲンにのぼった。致死量は400~
500レントゲン以上である。
また、大気圏に上がった「死の灰」は、雨や雪に混じって長時間に
わたり地球上に降り注ぎ、あらゆる生物に影響を与えた。北海道の
雪や九州の雨からも、何千カウントという強い放射線が検出され、
雨にあたると髪の毛が抜ける、原子病にかかると恐れられた。そし
て、太平洋に降り注いだ「死の灰」は、海水はもちろん、プランク
トンからマグロまでを汚染していた。
やがて、連日のように放送される汚染マグロの恐怖で、日本中が魚
離れを起こしパニック状態になっていった。それは20世紀最大の
地球環境汚染ともいわれている。
(6~7p)
私が生まれる7年前の出来事。
リアルタイムで体験していないこと。
水爆実験の死の灰を浴びた第五福竜丸が被爆し、
約半年後に久保山愛吉さんが亡くなった。
その程度しか知らなかったと思います。
しかし、第五福竜丸は被爆した漁船の中の1隻であり、
他にも被爆した漁船はありました。
海は放射能で汚染されて、
捕獲したマグロからの放射線が検出されました。
上空にあがった死の灰は、雨として降り注いで恐怖を与えました。
今回の本に書いてあった内容です。
その当時に生きていたら知っていただろうか。
7年後に生れた私は、第五福竜丸の事件は、
ここまで語り継がれなかったと思います。
もう風化していたのかもしれません。
でも、大石さんの書かれた本は残りました。
この本のおかげで、想像以上に事件のことが見えてきました。
つづく
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