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2020年8月 5日 (水)

「ボクはやっと認知症のことがわかった」③ 生きていれば「耐える」ことは尽きない

  

今日は令和2年8月5日。

  

前記事に引き続き、

「ボクはやっと認知症のことがわかった」

(長谷川和夫著・猪熊律子著/KADOKAWA)より。

  

  

 ボクがつくった絵本『だいじょうぶだよーーぼくのおばあちゃん

ーー」(ぱーそん書房)は、2018年10月に無事完成し、出版

されました。(中略)

 認知症の人は「怖い人」ではなく、みんなと同じ世界に住んでい

て、一緒に楽しく暮らしていきたいと思っているんだよーー。子供

たちにはそれを心で感じてほしい。子供だけでなく、大人にも読ん

でもらって、認知症に対する理解を広げてもらえたらと願っていま

す。

(156~157p)

  

学校で認知症のことを教える。

以前はそんなことを考えたこともありませんでした。

思えば、教室で父親のことを話したことがあります。

それって、あまり意図はなかったけど、

認知症のことを話していました。

介護保険制度のことを「公民」で教えるのかな。

最近は中3を教えていないので、不明です。

この制度を教えることになったら、

私の今の体験は生きますね。

  

  

 音楽も好きです。大好きなのはベートーヴェンのピアノソナタ

『悲愴』の第二楽章。家内は音大のピアノ科を出ているから、とき

どき弾いてもらいます。美しい曲です。ボクが死んだときは、これ

を弾いてくれと家内に頼んであります。

(180p)

  

私もいい曲を聴いた時には、この曲を自分の葬式に流してほしいと

連想します。

長谷川さんの場合は、よりリアルです。

奥さんのピアノ演奏が流れるのですね。贅沢な演出だと思います。

  

もし私が急に死んだら、どの曲がいいだろう?

ケツメイシの「手紙~あれから」がいいかな。

ここでも道草 生活のBGM この10年を肯定してくれる「手紙~あれから」(2017年2月5日投稿)

どうぞお願いします。

  

 

 ある講演会で招かれたとき、「認知症になると何もわからなくな

るから、死は怖くなくなるのですか。認知症でないときよりも、む

しろ楽なのでしょうか」と尋ねられました。ボクが自分のことを認

知症だと思いはじめていたころのことでした。ボクはこんなふうに

答えました。

「正直、わかりません。でも、重い認知症になっても、自分がされ

たら嫌なことや、自分の存在が消滅してしまうのは恐ろしいという

気持ちは残るのではないかと思います」

 耳から聞くことは死ぬ間際までわかっているらしい、とよくいわ

れます。だから、死が間近な人のそばで下手なことはいわないほう

がよい、と。母親が死ぬ間際に娘が駆けつけて、大丈夫?A子よ、

わかるなら手をぎゅっと握ってみて、といったら、母親が手を握っ

たというエピソードを聞いたことがあります。目で見えることはわ

からなくなっても声は聞くことはできるし、いっていることもわか

る。認知症の人も、恐らくそのなのではないかと思います。

(184~185p)

  

思い出します。

意識不明になった伯母の傍らで、息子のいとこと話した体験を。

ここで話していることは、聞こえているのかもしれないね。

そう言いながら話していました。

聞こえていたかもしれません。

伯母はそのまま亡くなってしまったので、

確かめることはできませんでしたが。

  

  

 やはりいちばんの望みは、認知症についての正しい知識をみなさ

んにももっていただくことです。何もわからないと決めつけて置き

去りにしないで。本人抜きに物事を決めつけないで。時間がかかる

ことを理解して、暮らしの支えになってほしい。

(186p)

  

「日本人に伝えたい遺言」という章で書かれた文章。

この本の一番言いたいことはここにあると感じました。  

  

  

 生きるということは、やはりたいへんです。ときどき疲れて、も

ういいよ、もう十分だよ、ボク自身もいいたくなります。歩けない、

歯が抜ける、思ったこともうまく伝えられないなど、たくさん不都

合なことが起きますが、やはり、これじゃいかんと耐えて、自分を

奮い立たせていまを生きる。それこそが、長生きしている者の姿で

はないかと思います。

(188p)

  

長生きするとはこういうことなんですね。

引退すれば楽になるわけではなく、

「耐える」ネタは尽きないのでしょう。

覚悟しなくては。

  

   

「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯(ただ)一つにて在らん、

もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし」は新約聖書「ヨハネ伝」

第12章24節の言葉。

一粒の麦はそのままでは一粒だが、地に落ち、死んで芽を出せば

やがて多くの実がなるというキリストの教えから、人々の幸せの

ために進んで犠牲になる人を指す。

(194p)

  

長谷川さんが好きな文章だそうです。

思い出すのは、さだまさしさんの曲「ひと粒の麦~Moment~」

ここでも道草 記事「さだまさしさん 中村哲医師を悼む」(2020年6月8日投稿)

中村哲さんは、本当に「一粒の麦」になる人だと思います。

(さだまさしさんは、聖書の言葉を意識したのですね)

  

   

ラスト引用。

  

 いま、心がけているのは、明日やれることは今日手をつけるとい

うことです。

 たとえば、本を書きたいなと思ったら、せめてその一文のような

ものを、一行でも二行でもいいから、今日書いてみる。とにかく手

をつける。全部はとても無理だから、少しだけでいい。そうすると、

未来に足を伸ばしたことになります。何もしないでとどまっている

よりも、未来に希望がもてるし、楽しみも増えます。何よりも、自

分自身が安心できます。

 少し足を伸ばした未来は、やがて「いま」になります。いまがい

ちばん大切です。過去に起きてしまったことや、過去に自分がやっ

たことは変えられないし、どうしようもない。じつは過去というも

のは、ほんとうはないのです。過去とは、いま。なぜなら、昔のこ

とを思い出したり、話したりしているのはいまなのだから。

「いま」という時間を大切に生きる。繰り返しになりますが、生き

ているうちが花です。そう思いながら、社会や人さまのお役に立て

ることを、自分ができる範囲でやっていきたい。そして最後は、

1回きりの死を上手に受け入れて、旅立っていきたいと思っていま

す。

(204~205p)

  

大先輩の言葉は、しっくり入ってきます。

  

「未来に足を伸ばす」はいいですね。

私がブログを書くのも、そうかもしれません。

誰かが読んでくれるのを想像してうっています。

   

「過去とは、いま」

これもブログが思い出されます。

過去の記事を読むと、その時のことが思い出されます。

「いま」と繋がります。

長谷川さんの考えでは「いま」となります。

ブログのおかげで、書き始めた2007年4月21日以降は

「いま」ですね。

  

  

以上で引用を終了。

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