「ボクはやっと認知症のことがわかった」③ 生きていれば「耐える」ことは尽きない
今日は令和2年8月5日。
前記事に引き続き、
「ボクはやっと認知症のことがわかった」
(長谷川和夫著・猪熊律子著/KADOKAWA)より。
ボクがつくった絵本『だいじょうぶだよーーぼくのおばあちゃん
ーー」(ぱーそん書房)は、2018年10月に無事完成し、出版
されました。(中略)
認知症の人は「怖い人」ではなく、みんなと同じ世界に住んでい
て、一緒に楽しく暮らしていきたいと思っているんだよーー。子供
たちにはそれを心で感じてほしい。子供だけでなく、大人にも読ん
でもらって、認知症に対する理解を広げてもらえたらと願っていま
す。
(156~157p)
学校で認知症のことを教える。
以前はそんなことを考えたこともありませんでした。
思えば、教室で父親のことを話したことがあります。
それって、あまり意図はなかったけど、
認知症のことを話していました。
介護保険制度のことを「公民」で教えるのかな。
最近は中3を教えていないので、不明です。
この制度を教えることになったら、
私の今の体験は生きますね。
音楽も好きです。大好きなのはベートーヴェンのピアノソナタ
『悲愴』の第二楽章。家内は音大のピアノ科を出ているから、とき
どき弾いてもらいます。美しい曲です。ボクが死んだときは、これ
を弾いてくれと家内に頼んであります。
(180p)
私もいい曲を聴いた時には、この曲を自分の葬式に流してほしいと
連想します。
長谷川さんの場合は、よりリアルです。
奥さんのピアノ演奏が流れるのですね。贅沢な演出だと思います。
もし私が急に死んだら、どの曲がいいだろう?
ケツメイシの「手紙~あれから」がいいかな。
※ここでも道草 生活のBGM この10年を肯定してくれる「手紙~あれから」(2017年2月5日投稿)
どうぞお願いします。
ある講演会で招かれたとき、「認知症になると何もわからなくな
るから、死は怖くなくなるのですか。認知症でないときよりも、む
しろ楽なのでしょうか」と尋ねられました。ボクが自分のことを認
知症だと思いはじめていたころのことでした。ボクはこんなふうに
答えました。
「正直、わかりません。でも、重い認知症になっても、自分がされ
たら嫌なことや、自分の存在が消滅してしまうのは恐ろしいという
気持ちは残るのではないかと思います」
耳から聞くことは死ぬ間際までわかっているらしい、とよくいわ
れます。だから、死が間近な人のそばで下手なことはいわないほう
がよい、と。母親が死ぬ間際に娘が駆けつけて、大丈夫?A子よ、
わかるなら手をぎゅっと握ってみて、といったら、母親が手を握っ
たというエピソードを聞いたことがあります。目で見えることはわ
からなくなっても声は聞くことはできるし、いっていることもわか
る。認知症の人も、恐らくそのなのではないかと思います。
(184~185p)
思い出します。
意識不明になった伯母の傍らで、息子のいとこと話した体験を。
ここで話していることは、聞こえているのかもしれないね。
そう言いながら話していました。
聞こえていたかもしれません。
伯母はそのまま亡くなってしまったので、
確かめることはできませんでしたが。
やはりいちばんの望みは、認知症についての正しい知識をみなさ
んにももっていただくことです。何もわからないと決めつけて置き
去りにしないで。本人抜きに物事を決めつけないで。時間がかかる
ことを理解して、暮らしの支えになってほしい。
(186p)
「日本人に伝えたい遺言」という章で書かれた文章。
この本の一番言いたいことはここにあると感じました。
生きるということは、やはりたいへんです。ときどき疲れて、も
ういいよ、もう十分だよ、ボク自身もいいたくなります。歩けない、
歯が抜ける、思ったこともうまく伝えられないなど、たくさん不都
合なことが起きますが、やはり、これじゃいかんと耐えて、自分を
奮い立たせていまを生きる。それこそが、長生きしている者の姿で
はないかと思います。
(188p)
長生きするとはこういうことなんですね。
引退すれば楽になるわけではなく、
「耐える」ネタは尽きないのでしょう。
覚悟しなくては。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯(ただ)一つにて在らん、
もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし」は新約聖書「ヨハネ伝」
第12章24節の言葉。
一粒の麦はそのままでは一粒だが、地に落ち、死んで芽を出せば
やがて多くの実がなるというキリストの教えから、人々の幸せの
ために進んで犠牲になる人を指す。
(194p)
長谷川さんが好きな文章だそうです。
思い出すのは、さだまさしさんの曲「ひと粒の麦~Moment~」
※ここでも道草 記事「さだまさしさん 中村哲医師を悼む」(2020年6月8日投稿)
中村哲さんは、本当に「一粒の麦」になる人だと思います。
(さだまさしさんは、聖書の言葉を意識したのですね)
ラスト引用。
いま、心がけているのは、明日やれることは今日手をつけるとい
うことです。
たとえば、本を書きたいなと思ったら、せめてその一文のような
ものを、一行でも二行でもいいから、今日書いてみる。とにかく手
をつける。全部はとても無理だから、少しだけでいい。そうすると、
未来に足を伸ばしたことになります。何もしないでとどまっている
よりも、未来に希望がもてるし、楽しみも増えます。何よりも、自
分自身が安心できます。
少し足を伸ばした未来は、やがて「いま」になります。いまがい
ちばん大切です。過去に起きてしまったことや、過去に自分がやっ
たことは変えられないし、どうしようもない。じつは過去というも
のは、ほんとうはないのです。過去とは、いま。なぜなら、昔のこ
とを思い出したり、話したりしているのはいまなのだから。
「いま」という時間を大切に生きる。繰り返しになりますが、生き
ているうちが花です。そう思いながら、社会や人さまのお役に立て
ることを、自分ができる範囲でやっていきたい。そして最後は、
1回きりの死を上手に受け入れて、旅立っていきたいと思っていま
す。
(204~205p)
大先輩の言葉は、しっくり入ってきます。
「未来に足を伸ばす」はいいですね。
私がブログを書くのも、そうかもしれません。
誰かが読んでくれるのを想像してうっています。
「過去とは、いま」
これもブログが思い出されます。
過去の記事を読むと、その時のことが思い出されます。
「いま」と繋がります。
長谷川さんの考えでは「いま」となります。
ブログのおかげで、書き始めた2007年4月21日以降は
「いま」ですね。
以上で引用を終了。
コメント