「昭和の選択 中島飛行機の戦争」を見る
今日は令和2年4月14日。
前記事に引きつづいて、
最近見た番組についてまとめます。
2016年12月8日に放映された
「昭和の選択 太平洋戦争 幻の航空機計画
軍用機メーカー 中島飛行機の戦争」です。
この番組は、放映当時見ています。
3年半ほど前のことです。
でも多くを忘れていました。
軽くショックです。
これで2回目を見て、ブログに書き残すことで、
記憶に少しでも残ってほしいです。
〇中島飛行機創設者 中島知久平
〇日本で初めて飛行機が飛んだのが1910年。
中島飛行機創設は1917年(大正6年)。
〇中島知久平は日露戦争に参加。
その頃から、飛行機が戦争で重要な役割を果たすと考えていた。
〇横浜海軍工廠の長となり、軍部の主流であった
大鑑巨砲主義を否定し、軍用機の製作に勤しんだ。
しかし、思うようにいかない。
中島知久平は軍を辞し、民営で軍用機を作ることにする。
その時の気持ちを書いた文章。☟
「民営をもって行う時は1か年に12回の改革を行ない得るも
官営にては正式に言えば僅かに1回のみ。
故に官営の進歩は、民営の12分の1たるの理なり」
〇中島飛行機の試作機は、なかなか飛ぶことができなかった。
当時は、第1次世界大戦のため日本では好景気であった。
試作機が落ちてばかりだったことから、次のように言われた。
「札はだぶつく
お米はあがる
何でもあがる
あがらないぞぃ
中島飛行機」
〇それでもやがて試作機は成功し、
陸海軍からも大量発注がくるようになった。
日本初の金属製飛行機「軽銀号」も製作。
〇群馬県太田市が本拠地であったが、東京にもエンジン工場を造る。
〇1937年(昭和12年)日中戦争勃発。
中島飛行機の九七式戦闘機が、陸軍の軍用機として活躍する。
〇1941年(昭和16年)真珠湾攻撃
中島飛行機の九七式艦上攻撃機が、海軍の攻撃の主力となった。
〇アメリカへの参戦に中島知久平は「困ったことになったぞ」
と思っていた。
中島飛行機では、当時アメリカの技術者に指導してもらっていた。
技術力でも、資源においてもアメリカには勝てないと思っていた。
実際に、日本はだんだん追い詰められていく。
アメリカでは、重爆撃機B-29が実戦配備されようとしていた。
〇日本が起死回生するには、B-29を上回る超大型爆撃機を作って、
アメリカ本土を戦略爆撃して、工場などを破壊するしかないと
中島知久平は考えた。
〇「戦略爆撃」=軍需産業の生産設備や都市など戦場以外への爆撃。
〇中島知久平は軍部を説得して、超大型爆撃機の製作に取り掛かる。
設計でも時間がかかる。
B-29は4発(エンジン4基)の重爆撃機。
中島飛行機は、1941年(昭和16年)に、
4発の重爆撃機「深山」を試作しているが失敗している。
今回は6発の超大型爆撃機製作をめざした。
非常に難しいことであった。
飛行機の名前は「富嶽」
〇Bー29による日本への戦略爆撃が1944年11月から始まり、
エンジンを作っていた東京の中島飛行機武蔵製作所が
最初の標的となった。
〇「富嶽」の設計は放棄される。
〇終戦。
〇中島知久平は、1949年(昭和24年)10月29日に
脳出血で急死。享年65歳。
〇戦後、「富嶽」に関わった人たちは、平和な世の中での
エンジン製作・モノづくりに携わった。
その人たちと一緒に仕事をした人が次のように語った。
「”富嶽”をやった方たちは、それを誇ることはなかった」
〇「富嶽」は戦略爆撃機。兵士以外の人たちも狙う兵器。
兵器は、結局誰も望まないもの。それに技術が使われた。
誇れない。
〇500年ほど国どうしの戦争の結果、兵器・武器は進化して、
ついに戦略爆撃機を人類はつくってしまった。
以上です。
「戦略爆撃」が印象に残りました。
今までも聞いたことがあったが、自分の中で重き言葉になってきました。
原子爆弾も、この戦略爆撃の作戦の一つだったわけです。
工場や都市を爆撃して、相手の戦意を失わせようという発想を
人類は持ってしまったのです。
そして現在も行われています。シリアのように。
そうだ、番組では言っていませんでした、
中島飛行機の後継が富士重工であって、スバルなのですね。
ずっとフォレスターを乗っている身としては、
繋がりに気がついて、どちらかというとうれしい気持ちです。
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