「大熊町学校再生への挑戦」① 3月12日の朝の全町避難
今日は令和2年2月29日。
4年に1度の閏日。
おまけの日。
本当は京都での研修会(キミヤーズ塾)に参加する予定でしたが、
新型コロナウィルスの流行のため延期となりました。
おまけであり、予定が突然空いた日。
こういう日は道草日和。
ブログに記事を多めに書きたいと思います。
本をまた読みました。
大熊町教育委員会の方に紹介してもらった本です。
「大熊町学校再生への挑戦」(竹内敏秀著/
福島県大熊町教育委員会編/かもがわ出版)
印象に残った文章を引用していきます。
この本が出版された年月日も重要です。
2012年8月25日です。
東日本大震災が起こってから1年余りが過ぎた頃です。
地震、津波被害と、避難した3キロ圏内の住民への対応を続け
て、(3月)12日の朝を迎えました。町民の生活を根こそぎ
変えてしまう朝でした。
午前6時前、国から1本の電話が町長に入りました。
「原発が心配なので、10キロ圏内の住民を避難させてほしい。
あくまでも念のためです。」。さらに「これは内閣総理大臣の
指示ですから、よろしく」と言って電話は切れました。
10キロ圏内となると、大熊町のほとんどが入ってしまいます
(地図参照)。子どもを含め、すべての町民が町を離れなけれ
ばならなくなるのです、災対本部はざわめきました。
一方、11日の夜から不思議なことが起こっておりました。茨
城県から当町へ次々とバスが入ってきていたのです。その数は
70代以上になっていまいました。国からはこのバスを使って
避難しろとのことでした。国はすでに前夜からバスを準備して
避難させる準備を着々と進めていたのだと思っています。そし
て、混乱を避けるために、夜明けを待って当町へ避難指示をし
たとしか考えられません。
(25~26p 竹内敏英氏/大熊町教育委員会教育長)
次の日(3月12日)の早朝、「帰宅難民」になった子どもを、
保護者に渡し、朝食時に学校への集合時間を話し合っていると、
タイベックスに身を包んだ集団が体育館に近づいてきました。
同じくして、バスでの避難命令が出されました。すると、県外
のバスが、わき出るように体育館に近づいてきました。乗車し
た車窓から、地区民が集会所に列をなして集まるようすが見え
ました。
これが避難生活の始まりでした。
(95~96p)(根本修行氏/前・熊町小学校校長)
翌(3月)12日午前6時ごろ、突然、多くの車が校庭に入っ
てきました。「10キロ圏内に避難指示が出た」「全町避難」
「バスが迎えに来るので、そのバスで町外に避難するように」
とのこと。対応にあたっていた町役場職員や消防団員、我々に
は、連絡が入っていない。それどころか「バスは来る」「来な
い」と情報が錯綜し、一時混乱しました。
午前7時ごろ、バス十数台が校庭に入ってきました。茨城県内
の社名が書かれているバスに分乗し、自分も最後のバスに乗車
しました。「どこに向かえばよいのか?」運転手から質問され、
避難指示すら知らされていない自分への質問に驚きました。「
とにかく、前のバスを追って西へ」。バスは田村市方面へ向か
いました。この時点でも、バスに乗った町民を含め、まだ、深
刻な状況を理解していませんでした。せいぜい1~2日程度、
安全が確認されるまでの一時避難だと感じていました。
しかし、運転手との次の会話で、非常事態であることに気づか
されました。「何時に茨城を出て来たのですか?」「昨夜の10
時ごろに招集がかかり、11時に出発した」とのことでした。
(108p 早川良一/前・大熊中学校教頭)
2011年3月12日の朝の様子が書かれた文章を引用しました。
突然の避難指示であり、それほど長期にならないで
大熊町に戻れると思ったため、きっと持ち物も少なかった予想できます。
つづく
コメント