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2019年10月24日 (木)

「死の淵を見た男」/最近のニュースとつながる

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

 

 

津波から12時間余が経過し、

ついに原子炉に水が注入されるのである。

吉田は、こう語る。

「海水注入なんて、誰でもすぐにできると思っているとかも

しれませんが、そんなことではないんですよ。

それを簡単にできるかのように思っているかもしれませんが、

そんなことはないんですよ。

それを簡単にできるかのようにおっしゃる方もいますが、

そういう話を聞くと、憤りを感じますね。

現場が、どんな気持ちで水を見つけ、

そして進路を確保してやっているのか、

そういうことをまったくわからないまま、想像もしないまま、

話していますからね。

頭で考えるよりも、時間はいくらでもかかるわけです。」

しかし、福島第一原発の消防車は、三台のうち二台が

津波で打撃を受け、まともに動けるのは「一台」しかなかった。

消防車の確保、それが喫緊の課題となっていた。

(101p)

  

この状況で駆けつけたのが自衛隊の消防車でした。

  

 

東電の副社長、武藤栄(60)は、この時、

池田と共にオフサイトセンターにいた。

武藤は、地震が発生して1時間も経たない午後3時半に

本店を出発、東電が契約している江東区新木場にある

ヘリポートから、福島に向かっている。

事故が起きた場合は、地元の自治体への対応など、

現地にはさまざまな仕事がある。

とにかく副社長である自分がオフサイトセンターに

行かなければならない。

武藤は、そう考えていた。

だが、武藤の福島入りは困難を極めた。

民間のヘリは、日没になれば飛ぶことが規制されるため、

その前に現地入りしなければならない。

しかし、3時半に本店を出た武藤は、

地震による都内の大渋滞に巻き込まれ、車が立ち往生したのだ。

そのため、武藤は途中で車を降り、「走って」いる。

この時、埋立地の江東区で液状化した道路で

武藤は砂の中に嵌(は)まってしまった。

身長186センチという長身の武藤が、

液状化による砂に膝の上まで嵌まって動けなくなったのだ。

人に助けてもらって砂の中を抜け出し、

下半身を泥だらけにしながら、

二度もヒッチハイクをして、やっとの思いで新木場の

ヘリポートに到着している。

武藤を乗せたヘリが離陸したのが午後5時12分、

福島県双葉郡富岡町の福島第二原発の敷地に着陸したのは

午後6時29分のことだった。

(133p)

 

9月19日に福島第1原発事故を巡り、

業務上過失致死傷罪で強制起訴された旧経営陣3人に

無罪判決が下りました。

その中の1人が武藤栄さんでした。

Photo sputniknews

武藤さんは、その時一生懸命でした。

  

  

彼ら原子力制御のプロたちは、放射線の怖さは頭に染みついている。

強い放射線に曝(さら)されれば、人間の細胞は破壊され、

無残な最期を遂げることになる。

1999年に起こった茨城県東海村のJCO臨界事故の

被曝作業員が、身体中の細胞がぼろぼろになって

凄惨な死を余儀なくされたことは、彼ら原子力に携わる人間たちには、

忘れようとしても忘れられないものだった。

(180~181p)

 

1999年の事故は今年で20年。

ニュースで流れていました。


YouTube: JCO臨界事故から20年 茨城・東海村職員らが黙とう(19/09/27)

Photo_2  

自分の中では、風化してしまった事故だったので、

本を読んで思い出せ、ここに書き留めることができてよかったです。

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