「薬のやめどき」その4/薬よりも食事と運動
今日は令和元年10月31日。
前投稿に引き続き、
「薬のやめどき」(長尾和宏著/ブックマン社)より
引用します。
高齢社会になった日本では「老い」と「病」の区別が
つかなくなってきた。昔ならば「老化ですね」の一言で
納得してもらえていた症状に、高血圧や高脂血症、
認知症、骨粗しょう症などといった病名をつけるようになった。
その結果、この国では「老いる」という自然の摂理が
とてもわかりにくくなってしまった。
生き物の寿命には限りがあるし、老化による病気は
根本的には不可逆なもので、治らない。
うまく付き合うことのほうが大切なのは誰でもわかる、
はずである。
ところが自分のこと、あるいは自分の親御さんのこととなると、
いつまでも病気知らずで長生きできる、それが当然、
と思う人がたくさんいるようだ。
(160p)
なるほどです。
「老い」と「病」の区別はあいまいになっています。
薬好きはどうやら日本人の国民性のようで、
医療=薬をもらうこと、という思い込みがある人が多い。
つまり、多剤投与は決して医療者や製薬会社の罪だけではない。
医師と患者の共同責任なのだ。
(161p)
「ちょっとめまいがするから耳鼻科にでも行こう」
「ちょっと目が霞んできたから眼科にでも行こう」
「ちょっと膝が痛いから整形外科にでも行こう」
「ちょっとトイレが近いので泌尿器科にでも行こう」・・・・
そもそもその症状、本当に専門医療が必要なのか?
まずはかかりつけ医に相談するのではダメなのか?
多剤投与は医師と患者の共同責任だと書いたが、
多重受診に関しては、患者さんが側にもっと
責任があると考える。
(167p)
父親の場合は、かかりつけ医がいるのは幸いです。
私もいつも父親を連れていっているので、
一度もそこで診断を受けたことがないけど、
実質かかりつけ医になっているかな。
よく「医療費の自然増」といわれるが、本書をここまで
読んでくれた人は、決して自然ではないことがわかって
頂けると思う。
臓器別医療による細分化、患者の高齢化、さらには
薬好きの国民性が重なり、多剤投与による無駄な費用が
増大し、誰も止められなくなってきているだけだ。
本当はもっと減らせる。
医療費の中で一番減らせる部分は、まずは薬剤費なのだ。
それに加えて人間の尊厳も守ることができるのだ。
ところが、正論を言うとあちこちに不都合が生じる。
製薬業界や薬剤師業界は薬の売り上げが頭打ちになると
明らかに困る。日本の製薬業界の規模は約10兆円、
国を挙げて国際競争力を育てようとしている産業だ。
その製薬会社から研究費が出なくなると大学も医者も
すごく困る。医療や薬の世界はいわゆる「おクスリ村」
だから、そこの村人たちは、みんな困ることになる。
だから薬の問題はきわめてアンタッチャブルないし
タブーなのだ。
しかし、このまま放置していいはずがない。
患者さん個人の尊厳や幸福が脅かされるだけでなく、
国家の存続にもかかわる問題になってきたからだ。
(172~173p)
話は国家財政にもつながりました。
「病気は薬で治すもの」と疑わない医者も、一般の人も
少なくない。しかし生活習慣病であれば、本来は薬よりも
食事(栄養)と運動のほうが優先すべきだが、
基本の基本をすっかり忘れている。
(191p)
この本を読んだのをきっかけに、基本を大事にしよう。
最近、ケアマネージャーさんに、父親をもっと
運動させてみては言われました。
パーキンソン病だから動かないのは仕方のないことと
あきらめかけていた時だったので、ハッとさせられました。
さっそく、手伝って足を動かしたりすると、
父親は楽しそうにしていました。
ショートスティでも、器具を使って足を動かすようになり、
筋肉痛を訴えていました。
基本を忘れすに、父親にも接したいし、自分自身もです。
以上で「薬のやめどき」からの引用完了。
またいつか読み直したいです。
今日の心療内科の診察で、「1週間、調子よかったです」と
申告しましたが、薬は現状維持の処方でした。
残念。次回は減量されるといいな。
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