銀閣その12/都を見たくないから東が正面!?
今日は令和元年7月13日。
前投稿の続きで、2018年4月21日放映の
「ブラタモリ 101 京都・銀閣寺」より。
タモリさんたちは、「ネーミングバラエティー
日本人のおなまえっ!」のメンバーと同じように、
銀閣の1階の縁に座ります。
そこでの会話を聞き書きします。
久山和尚:そもそも銀閣寺は、お寺ではなく、
義政公が隠居生活をするために別荘としてつくられた場所。
タモリ:ややこしい時代なんで、
(義政公は)嫌になったんでしょうね。
応仁の乱、わけのわからん戦いが始まるわで。
ほとんど京都は焼けてしまって。
ナレーター:足利義政が政治から身を引くきっかけとなった
応仁の乱(1467~1477)。
全国の大名が、11年にわたって争い、京都中が焼け野原となりました。
戦の最中(さなか)、義政は将軍職を息子(義尚)に譲ります。
その後、都を離れ、東山の麓に構えた別荘で、
隠居生活を始めるんです。(1483年)
そして造られたのが銀閣。
1階の正面は、庭と山に囲まれた東向きにしました。
梅林:僕の感覚なんですけど、銀閣って都に背を向けてるように・・・
タモリ:完全に向けてますね。
梅林:ですよね。
タモリ:向きたくないってぐらいの。
梅林:「僕、引きこもっちゃうからね」っていう、
義政アングルって感じませんか?
タモリ:感じる。完全に(都)を無視してるもん。
ここに来てわかる。全く(都を)見たくない(気持ちを)。
銀閣から西の方角に、天皇がいた御所があったり、
義政のような将軍が住む花の御所があります。
その方角を見たくないために、
銀閣の1階は東向きになっているという考えです。
次に一行は東求堂(とうぐどう)へ。
銀閣寺境内にあて、創建時から残っているのは、
銀閣と東求堂のみ。
その東求堂には、日本で最も古い四畳半があり、
足利義政は、ここで生活をしていたそうです。
付書院というのは、机として使ったもので、
床の間のもとになったところです。
和室の原型「東求堂」に行った後に、いよいよ地形から、
足利義政がなぜここに銀閣を建てたかが解明されます。
つづく。
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