「収容所から来た遺書」9/「必ずこの遺書を私の家庭に伝へ給へ」
今日は令和元年6月22日。
前投稿に引き続き、
「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(辺見じゅん著/文藝春秋)より
引用します。
その日遅く作業から帰って病室に駆けつけた新見此助に、
山本は走り書きを渡した。
「死ノウト思ツテモ死ネナイ スベテハ天命デス
遺書ハ万一ノ場合ノコト 小生勿論生キントシテ
闘争シテヰル 希ミハ有ルノデスカラ決シテ
100%悲観セズヤツテユキマセウ」
赤鉛筆で書かれた字は乱れてあちこちに飛び、
新見には判読するのがようやくだった。
山本(幡男)がこの世に遺した、最後の凄まじい気力によって
書かれたものだった。山本の顔を見ると、小さく頷いてみせた。
新見は涙がこぼれそうになったが、ぐっとこらえた。
そしてベッドの裾に回って、
骨と皮ばかりになった山本の足をさすった。
それから十日間、山本はときおり苦痛の呻き声を発するだけで、
朝も夜も、うつらうつらしていた。
1954(昭和29)年8月25日午後1時30分、
収容所の日本人は作業にでていたため、山本はだれにもみとられず、
ハバロフスクのラーゲリの病室で息を引きとった。
45歳の生涯だった。
死亡時刻は病院側から伝えられた。
山本が案じていた長男の東京大学合格の知らせが届いたのは、
亡くなったすぐあとだった。
すでに、シベリアの秋は深まっている。
夕方、坂本省吾が作業を終えて衛門を入ろうとすると、
衛兵所の脇に新見此助が魂の抜けたような表情で、
ひとりつくねんと立っていた。
「山本さんが・・・・山本さんが死んだけんね・・・・」
それだけいうと、涙と鼻汁と顔をくしゃくしゃにさせた。
山本の死はまたたく間にラーゲリ中をかけ抜けた。
(220~221p)
山本(幡男)が亡くなったあと、潮崎はむっつりと黙り込み、
だれとも口をきかなかった。
佐藤からノートに書かれた山本の遺書を見せられた。
その遺書を読み終えると、山本の家族に会って遺書を渡すためにも
自分は生きて帰らねばならぬと心に決めた。
粗末なソ連製のノートの最初の一枚目には、
次のように記されている。
〈山本幡男 謹白
敬愛する佐藤健雄先輩はじめ、この収容所において
親しき交りを得たる良き人々よ!
この遺書はひま有る毎に暗誦、復誦されて、
一字、一句も漏らさざるやう貴下の心肝(こころぎも/しんかん)に
銘じ給へ。
心ある人々よ、必ずこの遺書を私の家庭に伝へ給へ。 七月二日〉
(224p)
瀬崎が山本(幡男)の願いをなんとか実現させたいと思ったのは、
子供達への遺書を読んだときだった。
日本人として自分が死に臨んだときには、
このような立派な遺書を書きたいとしみじみ思った。
これは山本個人の遺書ではない、
ラーゲリで空しく死んだ人びと全員が
祖国の日本人すべてに宛てた遺書なのだ、と思った。
(225p)
北海道生まれの佐々木は親分肌で、
不思議と山本とはウマが合った。
「俺は一の能力しかなくても十の能力があるように見せられる。
北溟子は十の能力を一しか見せん」というのが口癖で、
山本に一目置いていた。
佐々木のような男まで魅きつけてしまう山本の幅の広さと人脈に、
佐藤はあらためて瞠目(どうもく)した。
(226p)
1956(昭和31)年12月24日の朝、
興安丸はナホトカ港の岩壁に横づけになり、タラップが降ろされた。
乗船が開始されると、ひとりずつタラップを登った。
山岸研にはタラップが長い距離に感じられた。
舷側(げんそく)と岸壁のあいだには見えない国境がある。
いま、その国境を越えるかと思うと、足がふるえた。
歩いてわずか1分にもみたないタラップを、一歩一歩踏みしめた。
途中でふたたび呼び戻されるのではないかという不安と、
もう大丈夫なのだという思いとで歩(ほ)を運んだ。
(244p)
この興安丸は、1956(昭和31)年12月26日に舞鶴に到着します。
あの終戦(1945年8月15日)から、11年4カ月あまり。
このブログを書き始めて12年。
その期間を、極寒のシベリアで衣食住足りない状況で働いていたわけです。
想像を絶します。
つづく。
コメント