「日本人のおなまえっ!」で「日本橋」の勉強のつづき
今日は3月24日。
前投稿に引き続き、日本橋のことを書きたいです。
今回のベースになる番組は、2018年9月27日放映の
「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!
【東京おなまえツアー~下町~】」です。
東京の地名「秋葉原」「銀座」「押上(おしあげ)」の由来や
相撲部屋の料理「ちゃんこ」のいわれになった力士が
紹介されました。
※参考:gooテレビ番組 ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ! 東京おなまえツアー〜下町〜
そして「日本橋」のことが扱われました。
日本橋に関する情報をここに書き留めます。
ビックリしたのは、日本橋を誤解している人がいたことです。
日本橋の上を通過する首都高速道路に、
「日本橋」の大きな看板があるので、
あの首都高速道路が「日本橋」だと
思っている人がいたからです。
実際に、ロケに参加している増田有華さんは、
そう思っていました。
ロケ隊の1人、ビビる大木さんが日本橋の名前の
いわれを聞いていました。
上の写真の右側の人は、地名研究で有名な
谷川彰英さん。72歳。
さすがに老けられたけど、お元気そう。
日本橋のいわれについて、教えてくれたのはこの人。↓
名橋「日本橋」保存会副会長の細田安兵衛さん。
むむ、確か「いだてん紀行」に出演していた人が、
会長さんだったぞ。
※ここでも道草 「いだてん 第6話」「いだてん紀行 日本橋」日本橋の歴史(2019年3月24日 今日!投稿)
細田さんが言うには、もともとは二本の丸太の橋だった
という説があるそうです。
ここに橋があったのは、江戸時代の前からだっだそうです。
それが「日本橋」になる仕掛人は、徳川家康でした。
ここで徳川家康が江戸に来た頃にタイムスリップします。
家康が訪れた当時の江戸は、ひどく寂れた状態でした。
茅葺の家がぽつりぽつりあるくらいで、
湿地が広がる場所でした。
家康は、まずボロボロだった江戸城を整えました。
その後街づくりをしました。
その際に目をつけたのが、二本の丸太の橋でした。
「この橋を立派にすれば、街と街をつなぐだけでなく、
もっと大きな意味を持つに違いない」
家康はそう考えました。
細田さんは、「五街道の起点にしようとした」と
言っています。
家康は、粗末な橋を、木造の太鼓橋に改築しました。
日本橋は、家康の目論見通り、五街道の起点になりました。
しかし、城改築の映像とか、日本橋周辺の映像とか、
この番組だけのために作ったものなのでしょうか。
それとも他の番組の流用?
大がかりな映像で驚きです。
「いだてん」でも思いますが、録画せずに、
ただ1回見るだけでは、あまりに惜しい映像です。
起点になったことで、日本橋には人、物、金が
集まるようになってきて、いろいろなものが誕生しました。
そのことを教えてくれたのが、この人↓
日本橋のたもとには魚河岸ができました。
江戸湾に近いことからも、ここに魚河岸ができました。
築地に移転するまで、魚河岸は日本橋にありました。
繊維問屋もでき、繊維に関する業者もたくさんいたそうです。
地方からたくさんの商人がやってきて、店を開店。
商業地となっていきました。
そのシンボルというお店は呉服屋さん。
たとえばこんな店。↓
店内。↓
当時の売買は、ツケで行われていました。
すぐにはお金を払わずに、1か月後2か月後に払うやり方です。
しかし、日本橋には日本中からお客さんが来るために、
ツケではお金を回収できません。
そこで、その場で現金を払ってもらうやり方を、
呉服店はするようになりました。
今では当たり前の、その場で現金で支払うようになったのは、
日本橋にできた呉服屋さんからだそうです。
明治時代になると、日本橋から銀行、郵便が始まりました。
ナレーター:家康が目をつけた二本の丸太の橋は、
ヒト、モノ、カネのネットワークを生み出す
まさに架け橋に。
そしていつしか日本の橋、日本橋と呼ばれるように
なっていったのです。
最後に、日本橋に関するクイズがありました。
わかりますか?
正解は・・・
徳川慶喜さんでした。
いつまでご存命だったのか、興味をもちました。
調べました。
没年は1913年(大正2年)11月22日でした。
明治時代を生き抜いたのですね。享年77歳。
あの戊辰戦争の時は、30歳を少し過ぎた頃だったのです。
以上、人力車から始まった学習が、「いだてん」の映像から
日本橋につながって終了。
「いだてん」
今晩の放送が楽しみ。
いよいよ金栗四三がストックホルムを走る!
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