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2018年11月 7日 (水)

「海ゆかば」の作曲者が、校歌の作曲をしていた

今日は11月7日。

  

同僚の先生と、軍歌のことが話題になりました。

軍歌の中では「海ゆかば」がいいと言ったら、

同僚の先生が、「海ゆかば」の作曲者が、

勤務校の校歌の作曲も手がけたと驚きのニュースを

教えてくれました。

俄然、作曲者に関心を持ちました。

  

調べました。

  

信時潔(のぶとききよし)さんでした。

大阪市出身で、1887年生まれ。没年は1965年。

 Wikipedia 信時潔には、

校歌を作曲した学校の名前一覧が載っていました。

勤務校の名前を探しましたが、見つかりませんでした。

Wikipediaには全部は載らないようです。

地元にある豊川工業高校の校歌も、信時潔さん作曲。

豊川工業高等学校HP 学校概要 校歌

このサイトを見ると、信時潔さんが、

豊川工業高校の校歌にかかわったいきさつが

書かれていました。

でも、勤務校同様、豊川工業高校は、

名前一覧には載っていませんでした。

  

  

今回、「海ゆかば」の歌詞が気になりました。

さんざん聴いてきたけど、歌詞に注目は初めてですね。


YouTube: 海行かば(コロムビア男聲合唱團)

 

海ゆかば 水漬く屍(みずつくかばね)

山ゆかば 草生す屍(くさむすかばね)

大君の辺(へ)にこそ死なめ

かえり見はせじ

 

このような歌詞だったのですね。

そしてこの歌詞は万葉歌人の一人、

大伴家持の長歌の一部でした。

  

Wikipedia 海ゆかばより、この長歌の現代語訳を

一部引用します。

太字が、「海ゆかば」の歌詞です。

  

(前略)

我ら大伴氏は 遠い祖先の神 その名は 大久米主という 

誉れを身に仕えしてきた役柄 

「海を行けば、水に漬かった屍となり、

山を行けば、草の生す屍となって、

大君のお足元にこそ死のう。

後ろを振り返ることはしない」と誓って、

ますらおの汚れないその名を、

遥かな過去より今現在にまで伝えて来た、

そのような祖先の末裔であるぞ。

大伴と佐伯の氏は、祖先の立てた誓い、

子孫は祖先の名を絶やさず、

大君にお仕えするものである と言い継いできた

誓言を持つ職掌の氏族であるぞ

(後略)

 

当時、大伴氏の家長であった大伴家持が、

家訓を引用しながら、いかに大伴氏が

天皇のために働いてきた家柄であることを

訴えている長歌と思われます。

時代は聖武天皇の時。

大仏建立が始まる直前の時。

世の中は不安定な状況でしたが、

大伴氏は天皇を助けて頑張りますという感じです。

そんな時代の言葉を歌詞をしたのが「海ゆかば」

初めて知りました。

  

次のサイトに注目しました。

CHUNICHI Web 【音楽】「海ゆかば」の実像(上) 大伴氏の家訓時代に翻弄

CHUNICHI Web 【音楽】「海ゆかば」の実像(下) 信時の業績 近年見直し

  

このサイトの書き出しはこれです。↓

 

今年は万葉歌人の大伴家持が誕生して

千三百年(数え年)にあたる。

第二次大戦中、ほとんどの日本人が耳にした

「海ゆかば」の歌詞は、家持が越中国守在任中に詠んだ長歌の一節。

作曲した信時潔は戦後、軍国主義に同調したとして冷遇された。

時代に翻弄(ほんろう)され、忘れ去られつつある名曲の実像を

二回にわたり探る。 (名古屋出版部・小松泰静)

 

大伴家持が長歌を歌った理由について書いたところを引用。↓

  

この歌詞が、万葉歌人大伴家持が越中国守時代に作った

長歌の一節であり、大伴氏の言立て(誓い)であることは

あまり知られていない。大伴氏の家訓と言えるだろう。

長歌は「陸奥の国より金を出せる詔書を賀く歌」

(天平感宝元年五月十二日)。

大仏造営に必要な金が産出されたことに喜んだ聖武天皇が、

詔書の中で大伴氏の家訓を取り上げ、

氏の先祖代々の功績をたたえたことに家持が感激し詠んだ。

長歌の中で家持も遠い祖先に思いをはせ、家訓を取り上げ歌う。

「大伴氏は勇敢な男の清らかな名を今に伝える一族だ。

家訓を守り天皇に仕えるのが役目だ。

手に弓を、腰に剣を帯びて朝夕に天皇をお守りするのは

大伴氏をおいて他にいない」

 

  

そりゃあ、太平洋戦争中の日本の雰囲気に

合致してしまう歌詞ですよね。

 

でも「海ゆかば」は軍歌とされる前は、

学校で歌われる唱歌でした。

大伴家持が詠んだ大伴氏の家訓「海ゆかば」に

メロディーを付けたのが東京音楽学校(現東京芸術大音楽学部)

元教授の信時潔。

ラジオ放送用にNHKの委嘱を受け

1937(昭和12)年に作曲。

製薬会社がスポンサーとなり、

唱歌として楽譜が全国の小学校に配られた。 

 

  

まさか戦意高揚に利用されるとは、

信時潔さんも思わなかったことでしょう。 

以下、戦後、そして現在のことです。 

  

 

信時は戦後、校歌や社歌などを除き、

ほとんど曲を作らなかった。

亡くなるまでに歌曲、合唱曲などわずか数曲である。

「海ゆかば」が軍国主義に利用されたことを

恥じたからだといわれる。

(中略)  

 

近年、ようやく信時の業績が見直され始めている。

没後50年にあたる2015年以降は各地で演奏会が開かれ、

交声曲「海道東征」を中心に、歌曲集「沙羅」、

ピアノ組曲「木の葉集」などが演奏されている。

「海ゆかば」についても合唱、弦楽四重奏、

パイプオルガンなど、戦前から戦後の様々な

録音を集めたCD「海ゆかばのすべて」が販売された。

時代に翻弄(ほんろう)された信時と「海ゆかば」。

音楽家の戦争責任を問う声は今もある。

しかし歌の歌詞と曲の成立過程を見る時、

時代の呪縛から解き放ち、信時の音楽そのものとして

聴いてもよいのではないだろうか。

「海ゆかば」が唱歌(日本歌曲)の名作として、

家持を生んだ古代の名門大伴氏の歌として

愛唱されることを願いたい。

Pk2017072202100102_size0 日本のクラシック音楽の草分けとして文化功労者となり

笑顔を見せる信時潔=1963年、東京都国分寺市の自宅で

 

 

社会科教師として、大伴家持の長歌の一部に曲をつけ、

昭和時代初期の雰囲気を象徴した「海ゆかば」を

貴重な資料として、生徒たちに紹介したいですね。

何と言っても、生徒たちが歌っている

校歌の作曲者なのですから。

コメント

 こんばんは。
 先生がここをご覧になるのが朝でしたらおはようございます。

 わたくしの発言が先生の知的探究心の一端を触発したみたいで、しかもそれについてこんなに長々とアウトプットしてらっさって、圧巻の一言です。

 コピーも有り難うございました。

 とりあえず、このページをお気に入りに登録しておきますね。

 失礼します。

こんばんは。
晩にコメントを見ることができました。
まだホカホカのコメントを。
ありがとうございます。
今まで「海ゆかば」はメロディーを味わっていましたが、
いいきっかけをもらって、歌詞をよく見るようになりました。
そして「海ゆかば」の作曲者が校歌と一緒!
この情報は、好奇心に強く引っかかりました。
調べて面白かったです。感謝。
  
今日は、体育館に飾られている校歌の
作曲者名の写真を撮りました。
次の投稿で載せる予定です。

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