「驚きももの木20世紀」その4/NASAは焦っていた
今日は2月4日。
前投稿に引き続き、
1993年10月29日放映の
「驚きももの木20世紀 チャレンジャー爆発」をここに書き留めます。
いよいよ打ち上げが迫ってきました。
ナレーター:チャレンジャー号の打ち上げが迫っていた。
当初、スペースシャトルは年に50回の
宇宙への往復を目指していた。
しかし、実行できたのは、年にわずか10回程度。
NASAは焦っていた。
司会の三宅裕司さんが「NASAは焦っていた」のことを
専門家の中村浩美さんに尋ねました。
中村さんが言うには、事故の後、レーガン大統領による
特別命令を受けた調査委員会が調査して、
報告書が出されました。
この報告書によると、Oリングというロケットブースターをつなげる部品が、
合成ゴムでできているため、寒さのために破損したんが、
直接原因とのこと。
それはそれとして、スペースシャトルにはビジネスの面もありました。
お金をいただいて人工衛星を運んだりするといった面です。
延期したり計画を取りやめたりすると信用にかかわります。
だからNASAは、何とかスペースシャトルを飛ばしたかったという
背景はあったと中村さんは言います。
チャレンジャー号の発射は近づいていました。
発射台のあるフロリダ州は、異常な寒波。
発射台は凍てついていました。
その日(1月28日)は寒かったので、
発射は延期されるのではと思っていたと広報官。
しかし、延期されませんでした。
チャレンジャー号打ち上げの1週間前、
宇宙飛行士たちは、発射台のあるフロリダのケネディー宇宙基地に到着。
ハワイから来た応援団60人余りも
フロリダに来ていました。
もちろん、エリスンさんのお母さんであるミツエさんも。
弟のクロード・オニヅカさんの証言。
打ち上げ前に、エリスンさんは母親に会いたがっていまた。
しかし、エリスンさんのいる隔離室に入るためには、
面倒な身体検査が必要でした。
年老いた母親には無理と判断して、会うことをあきらめました。
「会わせておけばよかった」と、
クロードさんは後悔しています。
いよいよ1986年1月28日。
午前5時。
チャレンジャー号の乗組員はにこやかに朝食。
打ち上げ30分前。
ハワイから応援団を乗せたバスもやってきて、
用意された”応援席”に着きました。
ナレーター:刻々と近づく発射の時間。
全てが順調に進んでいるようだった。
姉のシャーリー・マツオカさんの証言。
打ち上げ前に電話で弟と話しました。
最後にエリスンさんはこう言ったそうです。
「お母さんのことをよろしくたのんだよ」
午前8時。
7人の宇宙飛行士は発射台へ向かいました。
打ち上げ前日の夜、エリスンさんは、
お母さんのいるホテルの部屋に電話しています。
家族の様子、応援団の様子を話した後に、
エリスンさんはこう言ったそうです。
「みんなうまくいっているから、心配しないで」
いよいよ打ち上げ。
つづく。
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